南蛮文化の発信地
城下町・臼杵の歴史は、臼杵城に始まる。九州六カ国を治めた大友宗麟が1556年に築いたこの城は、築城当時は臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)の断崖絶壁に立つ、四方の海を天然要害とする城だった。今は埋め立てにより陸続きになっており、臼杵城跡として県の史跡に指定されている本丸と二の丸や、その間に現存する空堀、天守閣の一部の石垣などが往時の面影を残すのみ。それは残念だが、「海に浮かぶ城」の雄姿を思い描く楽しみが残されていることを幸いとするべきだろう。
府内の館から臼杵城に移り住んだ宗麟は、キリスト教を保護する一方で、ヨーロッパ先進の文物を取り入れることに腐心。臼杵は南蛮文化の発信地として、また明やポルトガルの船が出入りする国際色豊かな港町、教会や修道院のある異国情緒漂う城下町として、栄えたのである。
その繁栄もつかの間、豊臣秀吉の伴天連(バテレン)追放令以降、キリスト教が急速に衰退し、異国情緒も色褪せてしまったが、1600年に一隻のオランダ船が漂着したことは一大トピックだろう。船の名はリーフデ号、航海長はイギリス人のウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)、水先案内人はオランダ人のヤン・ヨーステンである。この二人が後に、徳川家康の外交顧問として活躍したことを考えると、臼杵は日本に大きな転機をもたらす舞台となった地、という見方もできる。
迷路の中の江戸風情
大友氏の後、福原氏、太田氏を経て1600年、美濃から稲葉貞通が入封。以来、臼杵藩は270年以上、稲葉氏の歴代藩主によって統治されることになる。城を中心に商家が立ち並び、周りを武家屋敷や寺院が取り囲む現在の町並みの大部分は、稲葉氏の時代に形成された。稲葉氏は廃藩後も旧藩主として力を持ち続けていたらしく、東京に移り住んだ後に、里帰りのための下屋敷が建てられた。1902年の建築で、上級武家屋敷の造りそのままの、重厚な門構えの立派な屋敷である。
あいにくの雨。正直、町を歩く気持ちがなえた。しかし、狭い路地ですぐに行き止まりに突き当たる迷路のような町を歩き、風景を眺めるうち、これは恵みの雨なのだと気づいた。石畳の道には、実に雨が似合うのだ。
阿蘇山の火山灰が固まって出来た凝灰岩の丘で、あちこちの岩を削り取って道を通したという「二王座歴史の道」。中でも旧真光寺の前の「切り通し」と呼ばれる辺りは、雨に濡れた城下町の美しさが際立つようだ。江戸風情が迷路の中に閉じ込められている。そんな気がした。
磨崖仏は謎の中
臼杵の市街地から西南方向へ車で約10分、深田という田園地帯に着くと、時間軸が一気に江戸時代から平安後期へと巻き戻る。ここはなだらかな丘陵に60体以上の磨崖仏が鎮座するところ。ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏群、古園石仏の、それぞれが覆い屋で守られた四つのパートに分かれている。うち59体が1995年、石仏として初めて国宝に指定された。
磨崖仏とは、天然の岩壁を利用して、岩に直接彫った石仏のこと。この辺りの凝灰岩は柔らかく彫刻に適しているので、木彫りのような精緻な石の彫刻ができたのだろう。中でも圧巻は、古園石仏にある大日如来像だ。以前は胴体から落ちていた仏頭が復位され、昔日の荘厳な姿に復旧した。切れ長の伏し目やほのかに紅を引いた唇など、端厳な相好の中にも温かな御心が感じられ、思わず手を合わせる。
他のどの石仏も味わい深いものばかり。ここには千年の時を経ても変わらぬ静謐と安らぎがある。
思いは豊後水道へ
臼杵の旅の仕上げは、やはりフグである。下ノ江湾と臼杵湾を縫うように突き出た半島にある、川口屋旅館別亭・久楽(ひさらく)へ。ここは昔、遊郭だった建物。つややかな雰囲気が漂う料亭だ。厚めに切ったフグ刺は新鮮さの証。噛んだ瞬間に、口いっぱいに独特の風味が広がる。
空揚げも、白子焼きも、まずフグを味わってから白菜や椎茸などを食べ、最後は雑炊というスタイルのフグ鍋も、本当においしかった。脇目も振らずに夢中で食べ、お腹いっぱいになって、ほっと一息。眼前に雨にかすむ海が広がっていた。
「フグの恵みをありがとう」――豊後水道に感謝せずにはいられない。
※『Nile’s NILE』2011年12月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

