杵築の成り立ち
観光地化した現代と隔絶して保存もしくは再現された城下町が多い中で、ここ杵築はある種独特である。江戸情緒を残す城下町らしい町並みをそのままに、その“時代の住人”たちがごく自然に生活臭をつけてきたのか、400年以上を経た今も代々の旧家の末孫を含む地域の人々がごく普通に暮らしている。そんな印象を受ける。
サンドイッチ型という形状も特異なこの杵築の城下町は、いったいどのようにして形成されたのか。まずは少し鎌倉時代以降の歴史をひもといてみよう。
源頼朝により豊後・筑後守守護職に補任されたのが大友能直である。『吾妻鏡』によると能直は頼朝の無双の寵臣で、並ぶ者のないお気に入りだったそうだ。もっとも下向したのは三代頼泰の時である。
その後、大友氏は豊後の豪族と婚姻関係を結びながら勢力を拡大した。21代当主・義鎮(法名は宗麟、1530〜87年)の時代には絢爛豪華な文化が展開した。
宗麟は権勢を広げる一方でキリスト教や西欧文化を積極的に取り入れるなど、交易に注力した。『ガリバー旅行記』第三篇の古地図に九州全体が「豊後島」と記されていることからも、当時の大分の繁栄ぶりがうかがえる。
ところが宗麟の死とともに栄華の時代は終わりを迎える。以後、豊臣秀吉の分割統治を経て徳川幕府による小藩の分裂・再編成が続き、幕末には豊後は18の領地に細分化されてしまう。
その一つが能見松平氏の杵築藩3万2000石である。能見松平氏7代英親(杵築藩初代)が1645年に入封してから本格的な城下町の整備が始まったとされている。
藩が違えば国が違うのも同然である。こういった小藩分立や栄枯盛衰が大分に多様な文化や風俗をもたらした。もちろん杵築も例外ではない。「木付(杵築)は東北に海有、此地海魚甚だ多し、町有り…木付の町は山と谷とありて坂多し」。
1694年に豊後を旅した貝原益軒が『豊国紀行』の中で描いた杵築の景観である。この頃には「サンドイッチ城下町」の骨格が形成されていたと思われる。
坂道を歩く
何を思いながら益軒は坂道の多いこの町をそぞろ歩いたのか。出発点を志保屋の坂の上に定めて、ぶらり歩いてみることにした。
酢屋の坂へと続く石畳の両側では町屋の家並みや石垣、白壁、武家屋敷の屋根、竹林などが美しい景観を織り成す。しばし立ち止まらずにはいられないポイントだ。
坂の名は豪商・志保(塩)屋長右衛門が両坂の下で酢屋と塩屋を営んだことに由来する。酢屋は現在、酢屋の坂の横に店を構える1900年創業の綾部味噌の前身である。
奥の石室は酢屋時代から使われている。その綾部味噌と向かいの木製品の店・萬力屋の間を通って杵築城へ向かう。
萬力屋は伊能忠敬ら一行が訪れた時に脇本陣として使われた建物を改築したものだ。杵築城はもともとは木付城である。
大友氏2代親秀の6男・親重が地名の木付を氏とし、その4代目の頼直が1394年に築いた。松平氏入城後に杵築城となり、断崖に立つ現在の城は1970年に建築された。天守閣から三方に海を望む景色は素晴らしい。
杵築城を後にして勘定場の坂へ向かう。収税や金銭出納の役所があったことからその名がついた。勾配24度、石段53段、蹴上がり15cm、路面幅1.2mというこの坂は、駕籠かきの足と馬の脚に合うよう設計されたという。
そして勘定場の坂を上った先には、道の両側に上級武士や家老たちの屋敷が並ぶ北台武家屋敷通りが広がる。
藩主の休息所である御用屋敷・楽寿亭の一部として使われた磯矢邸、現在も杵築小学校の校門として使われる藩校の門、回遊式庭園を備えた茅葺き屋根の家老屋敷・大原邸など、江戸の武家文化が最も色濃く漂う地域である。
中でも目を引く大原邸に立ち寄った。観音開きの長屋門をくぐると樹齢200年の蘇鉄が出迎えてくれる。客は玄関を入り、左の次の間で家老に用件を取り次いでもらい、庭に面した座敷へと通された。
ここには大原邸に住んだ最後の家老・大原文蔵の掛け軸が飾られている。さまざまな部屋を見て回ると「質実剛健」という文字が浮かんでくるようで、武士の暮らしが肌で感じられる。
お屋敷町を抜けると、そこは酢屋の坂のてっぺんだ。杵築にはこの他にも、くの字の曲線が美しい飴屋の坂、竹やぶに覆われた番所の坂、高い石垣が特徴的な天神坂、豪商が軒を並べた富坂など、趣ある坂が随所にある。
足の向くまま、気の向くまま“坂道散歩”を楽しみたい。
杵築の殿様は芝居好き?
きつき城下町資料館で、目にも艶やかな舞台衣装に出合った。豪華な刺繍や精緻な織模様が施されたその衣装は、明治時代に播磨屋座(歌五郎座)の最後の三味線弾きとされる嵐タカさんが守り抜いてきたものだ。
播磨屋座は共進座(胡蝶座)、新富座(新栄座)とともに九州一円はもとより、中国・四国地方、海を越えて朝鮮半島や中国大陸まで巡業して人気を博した一派である。中には江戸初期から中期のものと思われる衣装もある。
どうやら杵築藩の殿様は芝居好きだったようだ。貝原益軒の『豊国紀行』にも杵築芝居の一座が諸国を巡業していた様子が記されている。
藩主も城に役者を呼び芝居見物を楽しんだだろう。あるいは杵築藩が徳川に近い譜代藩であったことから、他藩で興行する芝居座を隠密として保護した可能性もある。
そんな杵築芝居の血脈を受け継ぐのが約3年前にオープンしたきつき衆楽観である。芸達者と評判の一座が繰り広げる人情味あふれる舞台も、江戸情緒を映す町の一面と言える。
杵築という城下町には、どこを歩いても豊後の昔と今を行き来するようなオツな楽しみがあるのだ。
※『Nile’s NILE』2011年12月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

