天を突く3本の無線塔が300mの間隔で正三角形並ぶ。“現役時代”は各塔の頂部をワイヤーでつないで正三角形のアンテナを構成。長波による遠距離通信を行っていた。分かりやすく言えば「巨大なパラボラアンテナ」だ。この中心に通信局舎がある。
その途轍もない大きさに圧倒され、我知らずのけぞる。針尾送信所の無線塔は、遠くから眺めると「何、あの煙突?」という感じだが、真下に立つと怖いくらいの迫力だ。旧日本海軍の誇りを象徴するこの建造物を、今回の旅の起点とした。
正門の向こうは米海軍基地。佐世保では日米海軍と市民が友好的に交流しているようだ。ちなみに鎮守府の地下壕の水没した地下2階から、複数の地下トンネルが延びている。どこまで延びているかはまだ分かっていないそうで、ちょっとしたミステリーである。
文化遺産の誉れ
みかん畑を抜け、雑木林の中を縫うように走る。やがて視界が開け、針尾送信所の広大な敷地に出る。ここに3本の巨大な無線塔が完成したのは1922(大正11)年のこと。
日露戦争時に無線電信の重要性を認識した旧日本海軍は、東南アジア方面への通信施設として建造を進めた。周囲に高い山がない針尾島は電波ロケーションが良好だった。
大きさだけでなく施工水準の高さも驚異的で、90年を経た今もひび一つ見られない。鉄を少なくしコンクリートで強度を上げるという当時の技術革新が凝縮されている。
佐世保市教育委員会文化財担当の学芸員・松尾秀昭さんは、「震度6の地震でも折れない強度を備えています。今後は教育のため公開施設として歴史を発信したい」と語る。
送信所として役割を終えた針尾は、“スマート・ネイビーの栄光”を物語る文化遺産として、新たな存在感を放ちつつある。
軍都、誕生
佐世保に旧日本海軍鎮守府が置かれたのは、針尾送信所の開設から23年さかのぼる。海軍鎮守府とは、日本全土の海域を外国の侵略から守るための機関だ。
時代は列強による植民地化の瀬戸際で、亡国の危機に瀕していた。坂本龍馬が1867(慶応3)年に起草した新国家体制の基本方針「船中八策」に「海軍宜シク拡張スベキ事」とあるように、維新政府は海軍の強化に注力した。
そして日本の沿岸・海面を5つの区域に分け、1884(明治17)年の横須賀を皮切りに、呉、佐世保、舞鶴と、次々に鎮守府と軍港が設けられた。当初予定されていた室蘭だけが取りやめになり、最終的に“4鎮守府体制”となった。
では、なぜ西南日本の海上防衛の基地が佐世保だったのか。
そうすんなりとは決まらなかった。海軍は2年半もの期間を費やし、何度も綿密に視察調査を重ねた。1883(明治16)年8月には、東郷平八郎を艦長とする軍艦・第二丁卯(ていぼう)が入港し、佐世保村民にとって「黒船来たる」の衝撃だったという。
結果、佐世保が選ばれた決め手は佐世保湾の地形だった。外海との出入り口が1つしかない上、間口が狭く湾内の水深が深いため、防備に都合が良かった。また東アジアに近いこと、近隣の石炭産地から燃料を確保しやすいことも評価された。
金比良山(こんぴらやま)という小高い山を削って建設された鎮守府には、イギリス風の赤レンガ庁舎があった。1945(昭和20)年6月の佐世保大空襲でほとんどが焼失し、現在は海上自衛隊佐世保地方総監部となっている。
当時の面影を残すのは正門の門柱と、通信室として使われた地下壕のみだ。広大な敷地を擁していたかつての鎮守府では、連合艦隊が入港すると港が100隻以上の艦船で埋まり、町は水兵服一色になったという。
その栄光を求めて、水交社跡(現・海上自衛隊佐世保史料館)や、旧凱旋記念館(現・佐世保市民文化ホール)などを見学した。少し足を延ばし、士官の士気高揚と癒やしの場だった花街のあった谷郷町周辺も歩いた。
海軍御用達の料亭・万松楼(ばんしょうろう)は山の符丁で呼ばれたという。周辺の赤線地帯には明治の名残が微かに感じられるが、花街の色香はすでに消えていた。
手付かずの堡塁跡
市街地から俵ヶ浦半島に点在する丸出山(まるでやま)堡塁へ向かう。佐世保市内には、1900(明治33)年以降、鎮守府防衛のために7カ所の「佐世保要塞」が陸軍によって建設された。
中でも俵ヶ浦半島は重要地点とされ、観測所と3砲台が設置され、ほとんどが手付かずで残る。ここはその一つ、丸出山砲台の観測所跡だ。
細い山道を登ると装甲観測所の遺構に行き着く。レンガ倉庫の脇の急すぎる石段を上った場所に、鉄製の頑丈な建造物が現れる。さびてはいるものの、装甲円蓋の現存例は極めて珍しい。
戦争中はやぶに隠され、木々の隙間から海域を監視し港を守った。砲台自体は少し離れた場所に埋もれており、実際に砲撃したことは一度もないという。
手付かずの堡塁跡は、海軍の夢の残像を今に伝える。
旅の締めくくりに丘から軍港を一望した。「海軍工廠」と呼ばれる造船部があった立神町(たてがみちょう)辺りでは、佐世保重工業のクレーンが稼働する様子が見える。
佐世保の造船の歴史が海軍工廠から始まったことを実感する風景だ。佐世保は今なお“スマート・ネイビーの栄光”を発光し続ける町なのである。
※『Nile’s NILE』2013年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

