花街・丸山を支えた女性たち
外国商人や豪商、幕末の志士たちが集う社交の場・丸山には、彼らを陰で支える女性たちがいた。丸山ができたのは1642(寛永19)年で、遊女屋を一箇所に集めた公認の遊郭として始まった。
井原西鶴は『日本永代蔵』(1688)で丸山を「海上の気づかいの外、いつ時しらぬ恋風おそろし」と記し、当時の風流を伝える。幕末の頃の資本主義の風とは趣が異なるが、時代の変化を支えた女性たちの強さは変わらない。
今の丸山を支える二人の女性
最初に訪れたのは丸山随一の妓楼・引田屋の流れをくむ史跡料亭花月。日本初の洋間「春雨の間」に立つと、龍馬や勝海舟、岩崎弥太郎、小曽根英四郎、大浦慶、グラバーらが出入りした気配が今も漂う。
花月21代女将 加藤公子さん
女将の加藤公子さんは、ここが単なる遊興の場ではなく、幕末の志士や商人たちの情報交換の場だったと語る。いろは丸事件の歌「春雨」を作った部屋でもある。
が、事情があって実家に帰っていた時に「30年間、女将不在の花月にというお話をいただいて、雲仙の山を下ってまいりました」とのこと。1995(平成7)年から花月の女将を務めている。
現役芸妓・長崎検番会長 梅奴さん
もう一人は長崎検番の会長・梅奴さん。三味線、鼓、歌、踊りに生きた芸妓の凛とした姿勢は、丸山文化を今に伝えている。「芸妓衆は口が堅い」という言葉に、彼女たちが幕末の密談を守り抜いた強さが感じられる。
中国の風
長崎を語る上で欠かせないのが中国人=唐人の存在だ。南蛮貿易開始の16世紀から鎖国中も交易は途切れなかった。新地蔵所に蔵が建てられたことを起源に、後に中華街へと発展した。
さらに、孫文を生涯支えた梅屋庄吉の存在も重要だ。二人は香港で出会い、「アジア人の屈辱をそそぐ」という志を共有した。梅屋の支援は革命史に深く刻まれている。
旅の締めくくりに、世界新三大夜景に認定された長崎の夜景を稲佐山から眺めた。光の粒が、日本の近代化を牽引した多くの傑物たちの魂の輝きに重なる。重層する光は未来へと受け継がれていくだろう。
長崎湾を中心に、山々に囲まれたすり鉢状の地形により、特異な夜景が広がる。稲佐山のほか、鍋冠山、風頭山、長崎県美術館、グラバースカイロードなどでも、それぞれ趣の異なるすばらしい夜景を楽しめる。
※『Nile’s NILE』2013年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

