陸奥のど真ん中・平泉
砂金や駿馬、鷹の羽、アザラシの皮など豊富な産物に恵まれた陸奥(みちのく)は、都から搾取される一方だった。また「蝦夷は言葉の通じない僻地の野蛮人」的な差別も受け、攻撃の的にされた。だから、清衡は願った。「陸奥を都から差別・搾取されない国にしたい」と。そうして築かれたのが陸奥の中核都市、平泉である。なぜ平泉だったのか。盛岡大学文学部教授・大矢邦宣氏はこう語る。「一言で言えば、陸奥のど真ん中だからです。それをみんなに知らしめるために、清衡さんは南の白河関から青森の外が浜まで道を通した。今で言う東北縦貫道ですね。そして、その道の1町(109m)ごとに笠塔婆を合計約5000本立てて中心を測り、そこに中尊寺という『陸奥の中央の尊い寺』を建てました。誰もがここが陸奥の中央だとわかる仕掛けをつくったわけです」
加えて、平泉が「北上川の流域がほどよく開けた場所」にある点だ。「今も平泉には、道路や鉄道の幹線が通っていますね。それに、北上川という船の道もあります。とにかく平泉を通らないと北に出られない、そういう交通の要衝なんです。人や文物の交流は活発でした」
と大矢氏。また、中尊寺仏教文化研究所所長・佐々木邦世氏は、「平泉は昔から、京都や奈良で政権から睨まれた仏教者が流される所でもありました。西行法師がこちらで知り合いと再会して涙した、といった話も伝わっています。だから、平泉には都の情報がたくさん集まったんです」と指摘する。つまり平泉は、人・物・金が動き、経済活動を促し、また都に負けない文化を発展させた情報都市だったのである。中央の平泉を情報都市化した瞬間に、清衡・基衡・秀衡3代による奥州の栄華は約束されたと言っていいだろう。
情報都市「平泉」
平泉は奥州藤原氏が清衡・基衡・秀衡の3代で築き上げた陸みちのく奥の中核都市である。浄土思想による万人平等の国づくりを目指した清衡は、なぜ平泉に向かったのか。
見えてきたのは、情報都市としての機能。
平泉とは一体なにか――。その成り立ちを探り、正体を見つける。
悲運の清衡
その栄華の序章となる平泉前史を駆け足で辿る。
時は平安時代中頃、2つの在地勢力が台頭した。安倍氏と清原氏だ。とりわけ衣川以北・盛岡以南の広大な奥六郡を治める安倍氏の勢力は強大。朝廷はこれを牽制するために、源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍として送り込む。前九年合戦の始まりだ。
戦が長期化する中、源氏方は出羽の清原氏に援助を求めて、安倍氏を滅ぼした。この時、妻の生家ゆえに安倍氏に加担した廉で酷刑に処されたのが、清衡の父、経清である。
幸いと言うべきか、美貌の母は清原氏(清衡の祖母の実家)の頭領に見初められ、7歳の清衡を連れて再嫁した。それで命拾いした清衡は、やがて異母兄の真衡・異父弟の家衡と跡目を巡るお家騒動に巻き込まれてゆく。真衡が勝利を目前に急死し、清衡・家衡の争いに発展しそうになり、源義家が紛争処理に動き出した。いったんは調停が成立。だが、これを不服とした家衡が清衡の居館を襲撃する暴挙に出た。清衡は命からがら逃げ出したが、妻子は殺害されてしまう。そして、後三年合戦に突入。清衡は義家軍に加わり清原家を滅した。でも、勝利したところでもはや、清衡は清原家を継ぐべき立場にない。どれほど自らの悲運を呪ったことか。
「人生を怨んだ清衡さんが、道を踏み外しても不思議はありません。人間、怨みを捨てるのは難しいですから。おそらく、自在房蓮光が仏の教えを説き、清衡さんを新しい道へと導いたのだと思います」(佐々木氏)
立ち直った清衡は亡父の姓を継ぎ藤原清衡を名乗り、平泉を中心に陸奥を一つの国にまとめることを生涯の目標と定めたのである。
この世の浄土
清衡の国づくりで特徴的なことの一つに「浄土思想」がある。と言っても極楽ではなく「現世浄土」だ。「日本人には『死んだら極楽に行きたいけど、あの世のことはどうでもいい。今、この世で幸せに暮らすことが一番だ』と考える単純な部分があります。清衡さんもいろいろ辛い思いをしたし、自分の治める陸奥も坂上田村麻呂の蝦夷征伐からこっち、都に攻められ、搾取されるという苦渋の歴史を歩んできた。だからこそ、今のこの世を浄土にしたいと強く願ったのです」(大矢氏)
浄土は仏様のおられる所。星の数ほどある仏様の数だけ、浄土は存在する。清衡の現世浄土への思いが基衡、秀衡にも受け継がれた平泉にはだから、毛越寺の浄土庭園や中尊寺の大池に代表される浄土が随所に造られたのである。
精神的支柱は法華経
「清衡さんは最初に多宝塔を建てました。これは法華経の世界なんです。お釈迦様が娑婆に来て説法したその時、大地から塔が出現する。中の多宝如来が『釈迦が言ったことは真実だ』と言い、半座を空けて釈迦と並んで座る。法華経に出てくる印象的な場面ですね。その後、密教のお寺や100体の釈迦像を安置する釈迦堂、9体の阿弥陀像が並ぶ二階大堂、さらに金色堂と多くの寺塔が建立されました。清衡さんは『万人が自らの資質に従って成長し、その修行により仏になっていく』法華経を支柱とする仏国土を、陸奥に現出させようとしたのです」(佐々木氏)
仏の下に万人は平等である。ましてや、陸奥も都もない。清衡は法華経を精神的支柱に、現世浄土を描き出す国づくりを進めたのだ。その志は中尊寺建立供養願文に顕れている。清衡は冒頭で「鎮護国家大伽藍の建立」を宣言し、「奥州のためではなく、日本の鎮護のために建てた」と。その上で「官軍・蝦夷の別なく、さらには鳥獣魚介に至るまで、皆平等に浄土に往生する」ことを願う。
佐々木氏によると、注目すべきは「冤霊」なる言葉。戦で心ならずも命を落とした人々が怨みを残さず浄土に導かれるよう、願文に「鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かさしめん」と記した。戦のない万人平等の社会をつくる、それが平泉の浄土思想の基盤なのだ。
都の上をいく文化力
寺を建立しても、朝廷が攻めてこないとは限らない。根強い差別がなくなるわけでもない。しかも、陸奥は砂金や馬などを都に提供することで潤っているから、武力で対抗するのは避けたい。都と良好な関係を保ちながら、勢いを示すには?清衡はその答えを文化に求めた。
「平泉文化はすべて都風。都から建築技師や工芸家など一流の人々を招き、材料も都から取り寄せて、徹底的に都風にしました。ただ、それだけだと所詮はモノマネ。もっと先を行く、先進的・独創的なことをする必要がある。そこで清衡は、中国の文化を都に先駆けて持ってくるという戦略を取ったのです」(大矢氏)
大矢氏はその象徴が「紺紙金銀字交書一切経」だという。これは、紺紙に銀で罫線を引き、金字と銀字で1行ごとに交書した装飾経で、中国仏教の三大霊山の一つ、五台山にあった様式だ。都で白河法皇が始めた金字一切経が大評判を博していた同じ頃、平泉では一歩先を行く文化を見せつけたことになる。金色堂もそう。すべてが金で、螺鈿や漆の蒔絵など、平安後期の工芸技術の粋を集めた、堂全体が一つの美術工芸品のような建造物は都にはない。
このように平泉が文化力で都を凌ぐことができたのも、豊かな経済力を基盤とする情報都市としての機能に負うところが大きいだろう。1000年前の陸奥の都の輝きは、今なお東北にその光を注いでいる。
池は浄土。その曲線に 日本人の美意識がある 毛越寺――浄土庭園
毛越寺は平泉の南の入り口を担う寺院。2代基衡が、京都東山の法勝寺を規範として造営したとされる。『吾妻鏡』によると、その広大な境内にはかつて40に及ぶ堂塔と500余りの禅坊が存在したという。残念ながら、多くは焼失してしまったが、発掘調査により数々の遺構が発見され、ありし日の姿を今に伝える。
何より素晴らしいのは、前庭に配された、大泉が池を中心とする「浄土庭園」が、造られたままの状態で地下に残されていて、完全な形で再生されたことだ。余談になるが、奥州藤原氏は後源頼朝に滅ぼされ、江戸時代には伊達領になるなどしたものの、平泉が全く違う文化に塗り替えられることはなかった。だから掘ると、平安時代の遺構がそのまま出てくる。「学者先生たちはみんな、若い頃に平泉で発掘の経験を積む」(佐々木氏)そうだ。
それはさておき、三方を山に囲まれたこの庭園には、浄水を湛える大泉が池と中島、周囲の州浜、荒磯、立石、出島、築山、遣水……日本人の好む景色が集められている。
「池こそが浄土なんです。ただし、その池が曲線を描くのは日本だけ。インドでも中国でもどこでも、池はみんな四角で、その上に仏様のいらっしゃる宮殿が浮いている。人々は階段を下りて、プールのような池で沐浴するわけです。お経にも『池、四方から階段、上に宮殿』などとあります。つまり、池は四角いのが正しい。もちろん、日本人はそんなこと、知識としてはわかってます。でも、美意識に合わなかったんですね。もともと浄土は心落ち着く理想郷ですから、日本人としては曲線を描く海とか山の光景を配置しないと気がすまないところがある。最近の言葉を使えば、『自然と共生して、心地良く』という文化なのです」
大矢氏の話はさらに世界遺産のエンブレムに及ぶ。円は自然もしくは地球、中の四角は人間の創造した文化を表わし、2つが密接に結ばれていることを示す。この観点に立てば、「浄土―四角い池は人間が生み出した最高の文化」だ。それが日本人の美意識には合わないのは「人工的で幾何学的なものは、自然と対立・対抗・克服して創るものだから、自然との共生が図れないという意識が強い」からだろう。もっとも、平泉が世界遺産に認定されたのは、この浄土庭園に拠るところが大。「自然を神と崇拝する日本人の精神性を融合させた独特の浄土庭園を完成させた」ことが高く評価された。
また、毛越寺の東隣には基衡の妻が建立した旧観自在王院、線路を越えた向こうには3代秀衡が建立した無量光院跡がある。いずれも浄土庭園を設えた寺院だ。とくに無量光院は、宇治の平等院を模しながら、背景に山があること、仏堂内の壁に狩猟の絵を描かせて殺生の罪を懺悔する観無量寿経の世界を表現していることなど、平等院よりも深化した理念の下で造営されたことがわかって興味深い。
ここでも平泉の有する「都を凌ぐ文化力」を実感させられる。
900年前の平泉にはすでに、ユネスコ精神を具現化する文化があった
毛越寺と観自在王院の間の道と、無量光院の中軸線上には金鶏山という山があります。それで普通は「金鶏山は平泉の寺づくり・町づくりの原点になった山だ」と言います。それはそれで間違いではないが、それよりも清衡さんがお経を埋めた経塚で、信仰の山なんです。金鶏山がないと平泉の現世浄土が成り立たないというくらい重要な意味を持つ山です。では、清衡さんは何のために金鶏山にお経を埋めたのか。背景にあるのは弥勒信仰です。
弥勒様というのはお釈迦様からずいぶん目をかけてもらったお弟子さんでした。生まれが良く、頭が切れて品行方正、しかもハンサムでまじめな青年でね。ところが、お釈迦様より先に死んでしまいました。お釈迦様はたいそう嘆き悲しみ、「自分の次に仏としてこの世に降りてきて人々を救うのは弥勒だよ。彼の説法を聴けばみんな仏になれるよ」と予言された。ただ、それが56億7000万年後だというんです。生身の人間はとてもじゃないけど生きて会うことはできません。だから、極楽浄土にいながら、その時が来たらお経とともに弥勒様のもとに駆けつけて、自分を仏にしてくださいとお願いする準備をしておく必要がある。清衡さんが山に埋めた経筒・経壺は、ようするに弥勒様が現れた時に掘り出すタイムカプセルみたいなものですね。で、なぜ金鶏山かと言うと、金と鶏の山だからです。金は腐らず、錆びず、光を発して悪魔を寄せつけない。また鶏がコケコッコーと鳴くと朝日が昇り、光が射しこみます。つまり、金と鶏の「二重の光の山」の中に、肝腎要の時に腐らないようお経を保存しておこうという算段です。
ここまでは日本で最初に経塚をつくった藤原道長と同じ。まぁ都のマネです。でも死んでからが違う。道長さんは経塚のことを忘れたのか、仏教で一番位の高い人であることを示したかったのか、自分の遺体を火葬にさせたんですよ。それでは極楽浄土に行っても肉体は保存されず、弥勒様のもとへ駆けつけることも不可能です。その点、清衡さんは頭がいい。ご遺体は金鶏山と目と鼻の先にある中尊寺・金色堂の須弥壇の中に基衡、秀衡とともに安置されています。しかも金色堂は金・銀・螺鈿等の光で満たし尽くされたお堂ですから、悪魔を祓って守ってもらえます。だからきっと、清衡さんのご遺体は56億7000万年後にむっくり起き上がって金鶏山に行くのです。信じますか?
清衡さんがそこまで復活にこだわったのは、「何としてでも、またこの世に帰って来て、陸奥を都から差別・収奪されない世界にしたい。でなければ、死んでも死に切れない」という強い気持ちがあったからでしょう。そんな清衡さんの思いに触れる時、私はユネスコ憲章にある一節を思い出します。
「無知と偏見と不平等によって、戦争は可能になる」――。
実は、陸奥が都から受けてきたのはまさにこれ、無知と偏見と不平等なんです。これを払拭しない限り、陸奥はいつまでも「都から収奪され、それによって利害の衝突が起きて戦になる」という悪循環が続きます。それを断ち切ろうとしたのが清衡さんなんですね。だから私は思うのです。「平泉には900年前にすでに、ユネスコ精神を実現しようとした文化があった」と。
今回、金鶏山が世界遺産に登録されたことは、そういう意味でも大変意義深いことだと感じています。
※『Nile’s NILE』2011年9月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

