加賀藩の街・金沢

加賀百万石。加賀藩の豊かさを象徴するこの呼称はそのまま、財力を専ら文化に注ぎこみ、加賀特有の伝統工芸を育んできた歴史を象徴するものだ。歴代藩主であった前田家を文化の保護者たらんと駆り立てたものは何なのか。加賀藩の遺産を受け継ぎ、いっそうの磨きをかけて輝く金沢の街を歩いた。

Photo TONY TANIUCHI  Text Junko Chiba

加賀百万石。加賀藩の豊かさを象徴するこの呼称はそのまま、財力を専ら文化に注ぎこみ、加賀特有の伝統工芸を育んできた歴史を象徴するものだ。歴代藩主であった前田家を文化の保護者たらんと駆り立てたものは何なのか。加賀藩の遺産を受け継ぎ、いっそうの磨きをかけて輝く金沢の街を歩いた。

尾山(おやま)神社は加賀藩の初代藩主、前田利家を祀る。1873(明治6)年に宇多須神社に祀られていたのを遷座し創立。和漢洋3様式を折衷した神門が有名だ。

百万石もの広大な領地を、前田家はどのようにして手に入れたのか。なにしろ始祖・利家の生まれた頃の石高はわずか5000石。それが織田信長の家来になり、甲州・武田勝頼と対決した長篠・設楽原の戦いで活躍したことで3万3000石の城持ち武将になったことを皮切りに、要するに数々の武勲をあげて、みるみるうちに石高を増やした。百万石を超えたのは、利家亡き後、2代藩主・利長が関ケ原の合戦で東軍についたことによる。賤ヶ岳の合戦の時に親父とも慕う柴田勝家を裏切ったように、関ケ原でもかつての主君・豊臣秀頼を攻撃する側に立ったのだ。お家存続のためにうまく“勝ち馬”に乗ることで、加賀藩の発展を切り開いた、という見方もできる。

ただ、家康がそう簡単に利長を信じるわけがない。120万石と引き換えに、「利長は隠居して、弟の利常に家督を譲り、利常は家康の孫・珠姫を正妻とすること」という要求を突き付けた。血気盛んな利長を危険視したのだろう。この時利常はわずか9歳、珠姫は3歳だ。前田家を骨抜きにしようとしたのかもしれない。

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    境内には鍛鉄工芸家が手掛けたハスの葉をモチーフにしたオブジェ「夏の夕刻」などが設置されている。藩政時代に華やかな文化が開花した金沢らしい神社だ。
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    緑豊かな神苑が広がる。旧金谷(かなや)御殿の庭園で、古代舞楽の楽器を模した池泉回遊式の名園。偶然、白無垢の美しい花嫁が写真撮影で訪れていた。
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    拝殿は入母屋造り屋根瓦ぶき。中央天井は旧金谷御殿から移築した。格天井作りで各間ごとに岩絵の具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれている。
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    現在の宇多須神社はかつて卯辰八幡宮と称して、利家をこっそり祀った神社。代々藩主の祈祷所として崇敬があつかった。利家の神霊は後に尾山神社に遷座された。
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そんな経緯があって、前田家はたびたび謀反の嫌疑がかけられ、廃絶の危機に見舞われている。有力外様大名だけに、幕府の厳重な監視下に置かれもした。何とか疑念を避けようと、ずいぶん気を使ったようだ。そのことがわかるものに、例えば宇多須神社がある。利長は本当は利家を祀る神社を建てたかったのだが、家康と対立関係にあった利家を公然と崇めることはできない。そこで、金沢城の鬼門に当たる方角にある卯辰治田多聞天社の境内に、利長が越中領主時代に崇敬社だった二つの神社の分霊を勧請して卯辰八幡宮を創建。その上で利家の神霊を合祀した。つまり加賀藩の礎を築いた、誰よりも尊敬してやまない利家を「こっそり」祀る、そのくらい徳川と前田は緊張関係にあったということだ。

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    本社は通称「毘沙門さん」と地元では呼ばれている。
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    金沢の卯辰山山麓寺院群にある宇多須神社は金沢五社の一つ。
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    花街の風情が色濃く残るひがし茶屋街の裏路地。
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    宇多須神社はひがし茶屋街の外れに位置する。
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また、利常は「決して武器を取ることはありません」と態度表明をするように、百万石の財力のほとんどを文化政策に注いだという。特筆すべきは、利常が51年にわたって院政を敷いた後水尾のお院を中心とする「寛永文化サロン」という芸術運動を開花させたことだ。利常はいわばパトロン。その中で、利家の時代に下地がつくられた茶道文化を発展させ、蒔絵や金箔、象嵌、絵画、友禅などの超一流の人材を招いて文化の振興に努めたのである。徳川との確執はさておき、利家は派手好みだったというし、歴代の殿様が文化の良き理解者・保護者であったことも大きい。無粋な殿様だったら、かくも華やかな加賀文化は実現しなかったはず。この時代に利常がとった文化政策は、地元民のみならず後世に生きる多くの人々へのビッグなプレゼントになったように思う。
忘れてはならないのは、そういった文化を根付かせ、継承してきた”加賀人”の心意気である。職人はもとより、金沢に生きる人々にあまねく、伝統や文化が暮らしになくてはならないものとして息づいている。

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    加賀藩士・中級武士たちが暮らした長町(ながまち)武家屋敷跡。「さすが百万石!」の立派な家が並ぶ。土塀の続くこの町には、今も子孫たちが普通に暮らしている。
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    切石積み、粗加工石積み、自然石積み……金沢城では各時代のさまざまな技法を“石垣の博物館”のように楽しめる。城内外の石垣をめぐることができるコースも用意されている。
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    金沢城の初代城主は佐久間盛政。その後、利家が能登から入ったが、秀吉の重臣として京都や大坂にいることが多く、留守にしていることがほとんどだったという。
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※『Nile’s NILE』2016年7月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

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ラグジュアリーとは何か?

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それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
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