軽井沢近代史研究家
1945年、長野県軽井沢町生まれ。1970年代に喫茶店・古書店を開設。直木賞作家の水上勉が「古書りんどう文庫」と命名する。軽井沢の道路に愛称を付けた「軽井沢歴史の道」を作成。軽井沢ナショナルトラストを設立し、会長を務める。2018年、同団体の会員5名とともに日本建築学会賞受賞。その後、観光ガイドの会を設立。現在、軽井沢町文化財審議委員会会長。歴史案内や軽井沢に関する書き物などをしている。今秋には『近藤友右衛門と軽井沢』を出版予定。
文・大久保保
かつて私が店主であった古書りんどう文庫の資料室には、軽井沢関係の書籍や原稿、別荘や作家たちの写真が積み上げられている。その資料群の中には、私が発見した1901年作成の「軽井沢全景」の俯瞰図(P24〜25)もある。これは当時の軽井沢を実際に見て描いた絵地図と言われ、現在は販売もしているが、研究者にとっても重要なものの一つとなっている。
軽井沢は江戸時代まで中山道の宿場町として繁栄していたが、明治時代になると宿の南に街道が通り、鉄道も敷かれ、衰退する。しかし、アレキサンダー・クロフト・ショーという宣教師が軽井沢を「避暑地」として「発見」し、別荘を建てた。ここから、外国人宣教師、お雇い外国人、貿易商人などが別荘を建て、軽井沢での避暑が始まっていく。
町には、教会、テニスコート、洋館郵便局、横文字看板の出張店が並び、西洋服の夫人たちが町を闊歩。ホテルも建てられ、古い宿場に西洋が出現した。避暑地では皆テニスやハイキングや乗馬を楽しみ、それは「娯楽を人に求めずして自然に求めよ」という軽井沢の教訓・精神として今日まで引き継がれている。
また、別荘には必ず暖炉とテラスがあった。高原の夜は寒く、暖炉には火が入れられた。テラスは交流の場ともなり、お茶会が頻繁に開催されていたそうだ。一方、夜はホテルで紳士淑女たちのパーティーが催された。万平ホテルでは30日以上毎日違う料理が出されたという。さらに、洋服の仕立て屋が100人も出張し、流行もいち早く取り入れていた。注文した洋服は避暑の終わりに受け取る。ホテルや出張店は通訳なしで商いをしていたが、郵便物は夏期になると外国人が大勢滞在するため、家屋に番号を付けて配達していた。それはハウスナンバーとして今も残っている。
大正時代の1915年には、貿易商の野沢源次郎が、200万坪の別荘開発を始める。まず多くの道路をつくり、そこに「あめりか屋」という建築屋が大きな西洋館を建設。草原の中に西洋の風景が出現し、軽井沢は外国のようだと言われた。その洋館は上流階級の著名人に販売され、侯爵団地などと呼ばれたという。徳川、細川、加藤などのことである。そして、そこには、マーケット、プール、夏期大学校舎、ホテル、警察署、ゴルフ場への土地提供など別荘生活用と公共の施設もつくられた。野沢は「軽井沢中興の祖」である。
昔は軽井沢に別荘がないと一流とは言われなかった。元首相の田中角栄は、政治力はあるが学閥がない。そこで水戸徳川の豪華別荘を購入して箔を付けた。また、戦前には、三井の大番頭益田鈍翁が茶会を催し、そこでさまざまな相談が行われたという。このようにサロンで重要な物事が決められ、東京で発表・実行されるという裏面史の側面も軽井沢にはあるのだ。戦時中も、近衛文麿、鳩山一郎、東郷茂徳など大物の別荘では和平協議が行われている。軽井沢には、数えきれないドラマがあった。
※『Nile’s NILE』2022年5月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています。

