開発を免れた精霊の森
白神山地周辺でも、古くから森は人々の生活を支えてきた。戦前までは青森県側の森が薪の一大生産地となり、秋田県側では鉱山に使う木材として、また製銅精錬用木炭として森の木々が利用された。当時、白神は人が入ることのない奥山であり、ブナは資源としての価値が乏しいため、森に入るのはマタギくらいのものだったという。戦後、建築材やパルプ材の需要が増し、天然杉伐採やブナ林が拡大造林の対象となったとき、白神の奥地にも木材を運ぶ森林軌道が延びていった。しかし、白神山地を中心に秋田と青森をつなぐ青秋林道計画が発表されると、人々の間に論争が巻き起こり、白神山地の自然を守りながら活用していくことの重要さが訴えられる。その理由の一つとして、白神山地に国の天然記念物であり、環境省のレッドデータブックで危急種に指定されている日本最大のキツツキ、クマゲラが生息していることが挙げられたという。結局、青秋林道計画は森の核心部に入ることなく中断された。こうして白神山地は開発を免れ、“手つかずの森”として、のちの世界自然遺産登録に至ったのである。
現在、白神山地の約8割がブナに覆われている。ブナの寿命は200年程度といわれるが、生息地の条件が良ければ300年、400年と生き続ける。白神山地の森では樹齢300年以上のブナの巨木に出合える。それはまさに精霊が宿るかのような圧倒的な存在感を放つ。長年生きていると、ツルアジサイやフジなどの植物に巻きつかれ、幹の途中が締まってウエストのあるブナや、尻のある巨木もあるが、たいていのブナは天に向かってまっすぐに立っている。根は枝の広がりと同じくらい、大地に大きく張り広がる。
ブナは40年から50年で花を咲かせ、実をつける。実は毎年つくわけではなく、年によって豊凶があり、おおよそ5年から7年に1度の割合で豊作になる。木の大きさによって3000個から6万個の種子を生産するが、そのほとんどは動物に食され、一部は腐朽し、残ったものだけが発芽する。しかし、ブナの幼樹は成長が遅く、樹木の中ではミズナラやイタヤカエデに押され、多くが光不足や気象害のために数年のうちに枯死してしまう。成長が良くなるのは樹齢25年を過ぎてからで、50年から120年でようやくピークとなる。今では森の主のような威容を持つブナの巨木も、厳しい生存競争を生き抜いてきた精鋭なのだ。
自然保護や生物多様性保護という目的を考えるとき、地球環境の保全や資源の確保はもちろんだが、人が自然に触れたときに得られる安らぎや幸福感といった精神的な支えとしての側面も、その重要性の中で大きな割合を占めるだろう。澄んだ空気を胸一杯に吸い込み、森で受け継がれてゆく無数の生命を肌で感じることが、人間にとっていかに欠かせないものかを白神山地のブナ林は教えてくれる。
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※『Nile’s NILE』2024年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています