加賀百万石前田家12代のお殿様は考えた。城下に点在する茶屋をまとめて、街づくりをしようと。さすが財力のほとんどを文化政策に注いだ前田の家系、花街に目を向けるとは、粋な計らいである。
もっとも加賀藩は、1583年に前田利家が入城して以来、身分の別なく「謡」を奨励し、「空から謡が降ってくる町」と称されたところ。芸事に向ける視線は熱く、それが茶屋と芸妓の文化の醸成につながったのは自然な流れだろう。
ともあれ金沢に現在の茶屋街につながる花街が誕生したのは、1820(文政3)年のこと。藩公認の下、浅野川の東と犀川の西に郭と茶屋を集めるという、新たな町割りが成された。つまり浅野川の東に東郭(ひがし茶屋街)、犀川の西に西郭(にし茶屋街)が形成された。
その後、風紀の乱れから一度、公認が廃止されたものの、1867(慶応3)年に復活。明治に入ると、浅野川沿い、ひがし茶屋街の対岸に主計町茶屋街が設けられた。以来、金沢の茶屋街は三つ巴で発展してきたのである。
今回訪ねた主計町茶屋街は、浅野川大橋から中の橋までの間に、えんや、まゆ月、一葉、仲乃家の4軒の茶屋が集う。