神鬼、炎焔 – 刃には刃を

福岡県太宰府市の宝満宮竃門神社は『鬼滅の刃』発祥の地とも聖地とも目され、多くの“鬼滅ファン”で賑わっている。いざ太宰府へ。鬼殺隊を気取って、「鬼狩りの旅」に出かけるとしよう。

Photo Masahiro Goda  Text Junko Chiba

福岡県太宰府市の宝満宮竃門神社は『鬼滅の刃』発祥の地とも聖地とも目され、多くの“鬼滅ファン”で賑わっている。いざ太宰府へ。鬼殺隊を気取って、「鬼狩りの旅」に出かけるとしよう。

菅原道真の怨霊

太宰府天満宮の門前町
太宰府天満宮に通じる門前町。名物 梅ヶ枝餅の看板が目立つ。鬼すべ神事では、ここを鬼をはじめテン棒を突き上げる警固、大きなウチワを持つ燻手などの“三役”が練り歩く。

竃門神社を後にして、車で10分ほどの太宰府天満宮へ。ここは学問の神・誠心の神と崇(あが)められる菅原道真公の神霊を奉祀(ほうし)する神社だ。

道真はいわゆる「人神」でありながら、平安時代の醍醐(だいご)天皇の御代においては「怨霊(おんりょう)」と恐れられた存在。
鬼のような凄まじい怨念で復讐を果たしていく道真に、『鬼滅』に出てくる鬼たちの姿と、家族の敵討ちを目指す炭治郎の思いがダブる。

それにしてもなぜ道真は怨霊になったのか。ざっと生い立ちをたどろう。

道真は845年、出雲臣(いずもおみ)の祖神とされた天穂日命(あめのほひのみこと)を先祖とする菅原家に生まれた。
幼少の頃より学問を好み、詩歌の才に恵まれた。5歳の時に庭の梅を見て、こんな歌を詠んだ。

うつくしや紅の色なる梅の花
あこが顔にもつけたくぞある

まさに神童! 33歳で学問により朝廷に仕える文章博士になり、42歳で讃岐守(さぬきのかみ)に就任。領民から名国司と慕われて、4年間の地方官生活を送った。
この間、道真は漁師から「古代の皇族が3人の勇士を従えて、海賊を退治した」話を聞いて、「桃太郎伝説」という鬼退治のおとぎ話をつくった、なんて説もある。つい鬼との関わりを連想してしまう。

それはさておき、帰京後、道真は宇多天皇の信任を受け、55歳で右大臣にまで昇進したというから、大変な出世である。

ところが901年、時の左大臣 藤原時平の讒言(ざんげん)により大宰府に左遷された。
朝廷での権勢をほしいままにしたい藤原氏にとって、道真は邪魔者だ。その才が妬(ねた)ましくもある。だから「消してしまえ」とばかりに、「道真は醍醐天皇を廃立し、娘婿の斉世親王(ときよ しんのう)を皇位につけようと画策している」などとでっち上げたのだ。

道真は大宰府に下向した2年後、無実の罪を晴らせぬまま亡くなった。

怨霊になって都で猛威を振るったのは、死後5年ほど経ったころからだ。奸計(かんけい)の首謀者の一人、藤原菅根(ふじわらの すがね)を皮切りに、時平とその子孫たち、醍醐天皇の皇太子などが次々と亡くなった。「道真の怨霊の祟(たた)りだ」と都中が騒然としたのは言うまでもない。

“最後の仕上げ”と言うべきか、930年には内裏の一つ、清涼殿が落雷により焼け落ちるという惨事が起こった。多くの犠牲者が出て、醍醐天皇も病に伏してしまう。

そこに至って、12歳より26年間、奈良・吉野の金峯山にて修験道に励んだ真言密教の僧 日蔵が道真の怨霊と対面。祟りを鎮めようと、火雷神を祀る京都の北野に北野天満宮を建立したと伝えられている。

当時の様を伝えるものに、中世絵巻屈指の名作「北野天神縁起絵巻 承久本」がある。第8巻に日蔵が修行中に体験した六道巡りの様子が描かれているが、哲学者の梅原猛氏はこう分析している。

「菅原道真の怨念に滅ぼされて地獄に落ちた人々を、なおも苦しめる炎は、道真の怒りの火であり、復讐の火である。これは炎の絵巻だ」と。

鎮魂されて以後の道真は、ご存じの通り、学者・詩人としての名誉を回復し、学問の神として信仰されるようになったのである。

1 2 3
ラグジュアリーとは何か?

ラグジュアリーとは何か?

それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「NILE PORT」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。