「人命」すらカウントしない戦争の時代の始まり

時代を読む 第137回 原田武夫

時代を読む 第137回 原田武夫

なぜならば「戦争」とはとどのつまり、どれだけ効果的・効率的に敵国の人々を殺傷できるかが勝負の世界だからだ。そこで投入されるのがこうしたロボティクスやドローンであるというのであれば、その効能として「殺傷能力の高さ」が端的にアピールされるべきなのである。しかし、そうした描写は全くなく、ただただ勇ましく戦場に投げ込まれるこれらロボティクスやドローンの姿だけが描かれているのである。商品の効能が端的には描かれていないわけであり、マーケティング的には疑問なしとはしないように思えてしまう。

だが、そう思った瞬間、筆者の脳裏には別にアイデアが思い浮かんだのである。それはこれら戦場に投入されるロボティクスやドローンが対峙(たいじ)するのは、もはや生身の人間ではなく、他ならぬロボティクスやドローンなのではないかというイメージである。そうである時、有史以来の「戦争」におけるルールが大幅に変更されたということになってくる。なぜならばそこでの「戦争」においてもはや失われた人命の数をカウントすることは優先されるべき事項ではなくなってくるからだ。むしろ破壊されたロボティクスやドローンの数や容量といったものがそこでの勝敗を決定づけることになるのである。

「今なぜここで生きているのか」について十分自覚した存在としての生身の人間をヒトと呼び、そうではなく、無自覚に時を過ごしている存在を人間と呼ぶのであるとするならば、この意味での新しい「戦争」において必要なのは、ロボティクスやドローンのスイッチをON/OFFするヒトだけということになってくる。これに対して人間はもはや「失われた人命の数」としてすら意味を持たず、そこでは度外視されることが想定されている。つまり、「戦争」という究極の場面においてすら、この意味での「人間」には価値がないものと想定されているように筆者には思えて仕方がなかったのである。

時代はその意味で「人間」にとって最後の季節になりつつある。その次の時代が果たしてどういったものになるのか。これこそが、今私たち人類全員が考えるべき本当の問いなのかもしれない。

原田武夫 はらだ・たけお
元キャリア外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。

※『Nile’s NILE』2025年8月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

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