できないことを受け入れる生き方の陰に薬膳あり

本の食べ時 第10回 君島佐和子

本の食べ時 第10回 君島佐和子

本作品が「丁寧な暮らし」の登場から10年の経過を認識させるのが、「ネガティブ・ケイパビリティ」がキーワードとなっている点だ。主人公には「できないで諦める」シチュエーションが多い。十分に働けない。高くて買えない。頑張れない。そんな彼女のパート先に出入りする編集者が「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を投げ掛ける―「自分ではどうにもならない状況を持ちこたえる能力のことを、そういうのですって」「40を超えて先が見えてきた人間には、できない自分を受け止める能力の方が必要」と語る彼女に、さとこは「社会って、生産性や向上心があってこそ認められる場所だから、私みたいに頑張れない人間は何かいつも気後れしてしまって……そんな考え方があると救われます」と応じる。この言葉を広めた帚木蓬生(ははきぎほうせい)の本『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』では「負の力」とも表現されるが、2020年代に入っていっそう先の読めない世相を映して、このやりとりにはリアリティーがにじみ出る。

そんな主人公を前に向かせる役割を果たすのが薬膳。身体の気の巡りや水の巡りに働き掛ける食材の効能を意識することで、食べる喜び、季節を感じる喜びが芽生え、生気を取り戻していく。特別な料理を作るわけじゃない。薬膳のフィルターを通すことで、日常的な食事に潜むそれまで意識されてこなかった効用が可視化されるのだ。自然に学び、自然に従う薬膳の教えは、受け入れる生き方を肯定し、受け止める力を養う。膠原病も薬膳も作者自身の体験に基づくというだけに説得力に富む。

ところで、今年の「食生活ジャーナリスト大賞」に漫画家のよしながふみ氏が選ばれた。選出理由は、「連載中の作品『きのう何食べた?』で、日常の食の営みを描きつつ、食が取り持つ人間関係や交流を浮かび上がらせ、現代日本の今を捉えている点」。食漫画の系譜は『美味しんぼ』『孤独のグルメ』など脈々とあるが、作品における食の位置付けは変化してきた。食自体を描くのではなく、人や暮らしを食で描くのが今日的と言っていい。「丁寧な暮らし」の要は衣でも住でもなく食である。なぜって、料理する行為も食べる行為も毎日だから。けれど、食に血道を上げないのもまた「丁寧な暮らし」の大事なところ。『しあわせは食べて寝て待て』はそんなツボを見事に突いている。

君島佐和子 きみじま・さわこ
フードジャーナリスト。2005年に料理通信社を立ち上げ、06年、国内外の食の最前線の情報を独自の視点で提示するクリエイティブフードマガジン『料理通信』を創刊。編集長を経て17年7月からは編集主幹を務めた(20年末で休刊)。辻静雄食文化賞専門技術者賞選考委員。立命館大学食マネジメント学部で「食とジャーナリズム」の講義を担当。著書に『外食2.0』(朝日出版社)。

※『Nile’s NILE』2025年7月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

1 2
ラグジュアリーとは何か?

ラグジュアリーとは何か?

それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「Nileport」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。