今年(2024年)は我が国においてすさまじい「解き」と共に始まった。昨年末そのものはやや穏やかなように見受けられたわけだが、年始早々に「能登半島地震」「日航機炎上事故」と続き、お屠蘇気分が一気に吹き飛んだ。それだけではない。政界では自民党にて安倍派を筆頭とする派閥における政治資金規制法違反問題が追及され、他方でエンタメ業界では有名芸人を巡る性暴力問題が取り沙汰された。これらは個別に見るとそれぞれがそれぞれなりに理由があって生じた出来事のように見えなくもない。しかしこうした時だからこそ私たちは俯瞰して物事全体を見る必要があるのだ。そして俯瞰した時、私たちの脳裏に浮かび上がってくる言葉はただ一つ、「解き」なのである。
それでは一体何が「解かれて」いるというのであろうか。その答えを端的に言うならば、「1945年8月15日の『敗戦』以来、延々と築き上げられてきた戦後体制そのもの」に他ならない。総力戦の結果、「一億玉砕」の手前まで行ってしまった我が国。その瓦礫の山から復興を遂げ、高度経済成長を経て、現在の豊かだが活力の乏しい、ややもすれば固定化しがちな我が国にある全てが今、「解かれて」いるというわけなのだ。無論、この流れがおよんでいるのは我が国国民の全員なのであって、かくいう筆者自身も、そして読者の皆様もそこにおいては例外では決してあり得ない。
「とめどもなく解かれる」—そうした経験を我が国はこれまで繰り返し経てきたことを今こそ思い出さなければならない。古くは例えば天智・天武天皇の時代。「白村江(はくすきのえ)の戦い」で大敗北を喫した我が国はその後、天武天皇のリーダーシップの下、一気に国制改革を遂げた。あるいは平安遷都の時。それまでは天皇の居住場所である「宮」に過ぎなかったものを豪族たちの集住と官僚化を目的とした「京」にまで発展させた。そして武士の台頭に伴う鎌倉・室町幕府の成立、さらにはそれによる「権力(武士)」と「権威(天皇)」の分離。「応仁の乱」では京都がほぼ完全に焼け野原になったが、その反射的効果で各地に「小京都」が出来始め、分散型の国家となった。そして江戸幕府の成立とその明治維新による崩壊……等々、我が国の歴史の中においては「とめどもなく解かれる」という事態は周期的に生じてきたのであって、それと同時に「新たな結びが始められてきたこと」も事実なのである。これまでのものが「解かれ」なければ、新たな「結び」が生じることはあり得ない。今もまた、全てが「解かれる」ということは新たな「結び」が始まっているのだとまずもって私たちは知らなければならないのである。
したがってこれからはあらゆる意味で「拘り」を脱ぎ去って生きていく必要がある。ヒトは結局、己があってこその存在なのであって、しかもそれ以上でもそれ以下でもないのである。大事なことのように思える全てが実際には全くもって意味のないことであるという点を今だからこそ確認し、それを基点にしておのおのの人生を再構築していく必要がある。だからといって「流されて生きよ」というのではない。むしろ「流れ」をあらかじめ感じ、そこにある「波」にうまく乗ればよいだけのことなのである。それがありとあらゆる「拘り」があってはそうもいかないのだ。したがって全ての「拘り」をかなぐり捨てなければならない。それこそ、ヒトが個人レベルでできる最初の「解き」なのである。
「結び」が始まる時までに「解かなければ」ならない。だがそれは結局、己自身だけを見つめ続けるという姿勢に立ち戻ることを意味している。恐らく多くの同胞たちはこれに精神的に耐えられず、安易な道を選ぼうとすることであろう。そしてその結果、「解き」の怒ど涛とうに巻き込まれ、やがて歴史の藻屑となって消えていく。自分自身をありのままに認め、それでいながら「解きと結びの間で生じる波」そのものになって大きく飛翔すること。これこそが、今年(2024年)から始まる全く新しい時代において必須の生き方に他ならない。仮に読者の皆様に大志があるのであれば。
原田武夫 はらだ・たけお
元キャリア外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。
※『Nile’s NILE』2024年3月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています