はなからその店をひいきにしようなどとはからきし思っていない。話題の店を順に食べ歩き、SNSに投稿して注目されたいだけなのだから。
デジタル化が進み、AIまで登場して人間臭さがなくなってしまった令和に比べて、愚直なまでに人の手に頼る昭和が新鮮に映るのだろうが、それを一時のブームに終わらせてしまうのは、なんとも哀しい。「町中華」に注目するのなら、「こだわり」がなければ美味を生みだせないと思いこんでいる、偏った美食ブームに疑問を呈するぐらいの勢いが欲しいのだが、流れは変わることなく続き、古き良き食べものにまで、こだわりを求める風潮が目に付く。
時ならぬおにぎりブームにもそのにおいが漂っている。
どこそこ産の米を何時間浸漬して、特注の羽釜で何分間炊いて、何分間蒸らして、具材はこうでああで、などと講釈し、客の目の前でにぎって見せる店のおにぎりを求めて長い行列ができる。
昭和を象徴し、簡素な食の代表とも言えるおにぎりまでもが、こだわりという極彩色に染まってしまう。
もうひとつ例をあげてみよう。 近年の京都人気割かっ烹ぽうで、くどいほど耳にするのが「出だ汁し」。カウンターの客の前で出汁昆布を見せ、削り器を使ってかつお節を削って見せる。これらはかつて舞台裏で行っていた、ある意味陰でする仕事をオープンにし、下ごしらえからこだわっている、と主張するのである。
おにぎりを握ったこともなく、コンビニのおにぎりしか知らないひとにとって、専門店のパフォーマンスはマジックにも似た驚きを与えるだろうし、出汁の素しか使ったことがなければ、立派な昆布もかつお節削りも、魔法に見えて当然だろう。
素朴なおにぎりも、かつお節削りも、ある意味では原点回帰でもあるが、少なからず演出過剰でもある。言い換えれば厚化粧だ。
舞台に裏方や黒子が欠かせない存在であるのとおなじで、出汁もおにぎりも日本料理にとっては不可欠なバイプレイヤーである。
しかしながら、その存在は目立たず、陰で支えているからこそ、いぶし銀のような光を放つのだ。舞台の真ん中でスポットライトを浴びせるのは、無粋としか思えない。
ひっそりと、地道に長く続けてきた中華料理店に「町中華」という衣装を着せて華美に賞賛することも、おにぎりに「こだわり」という調味料を加えて持てはやすことも、裏方である出汁を表舞台に引っ張り上げて、過剰な演技を強いることも、すべて根っこはおなじ。
営々と続けてきた当たり前のことを、大げさにはやしたて、ブームを作りあげて耳目を集めようとするのが令和のもくろみ。陰の存在だからこそ、地道な仕事が光るということを忘れてはならない。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2024年2月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています