美食家ですね。そう言われると必ず否定する。ぼくはおいしいものは大好きだけど、美食家ではない。美食という言葉を辞書で引くと、「ぜいたくでうまいものばかり食べること。また、その食事」と書かれている。たまに、「ぜいたくでうまいもの」も食べるが、ふだんはごく当たり前のものを食べている。
そんな美食の定義を知ってか知らずか、美食が日本を再生するという論調がちまたで話題になっているようだ。いわく、美食を観光の中心に据えれば、日本の地方には輝かしい未来が待っている。だとか、世界の富裕層に向けて、地方のあちこちに美食の拠点を築けば、日本観光は隆盛を誇るようになる。など、いいことずくめらしい。つまりは、世界中の美食家を日本に呼び集め、多大な消費をしてもらえば、日本は潤い、地方に活気が生まれる、という趣旨のようだ。官民挙げてこの流れに乗ろうという空気が漂っていることに、少なからぬ危うさを感じてしまう。
冒頭に書いたように、「ぜいたくでうまいものばかり食べる」のは、けっして上品とは言えない。それも金にあかせて、となればなおのこと。日本の食文化というものは、ぜいたくばかりを追い求めてきたのではなく、質素倹約のなかにもうまさを見つけだし、身の丈に合った食を旨としてきたものである。その結果うまれたものが郷土料理であり、地産地消という言葉と深く結びついた、それこそが世界に誇るべき食の姿であって、和食が世界無形文化遺産に登録される大きな要因になったはずだ。
ところが最近はやりのガストロノミー・ツーリズムという考え方では、新味がないという理由で、むかしながらの郷土料理を軽視している。古くからその地方に伝わる料理では、富裕層を呼び込めないからだろう。時代の先端を行くような、イノベーティブなレストランを地方につくることによって、美食家を呼び込み、それによって地方の知名度を高めることで、その地が再生する。そういう流れのようだ。たしかに一部の店や企業はそれによって潤うだろうが、地方の再生に結びつくようには思えない。
ここ数年のことだと思うが、地方のひなびた地で、斬新なレストランやオーベルジュがオープンし、美食家と呼ばれる人たちが足しげく通うというブームが起きている。その地出身の料理人が故郷に錦を飾る的な店もあれば、東京をはじめとした大都会を離れ、志高い料理人が新天地を求めて開いた店もある。そういう自然発生的なものはいいのだが、はなから地方再生だとか、富裕層誘致を目的として作られた店は、はたして人を引きつける魅力を出すことができるのだろうか。
もはや旧聞に属する話になってしまったが、女優との不倫スキャンダルで話題になったシェフの会社が、長野県でレストランを開いた。人口わずか3000人にも満たない、小さな村が活性化を目指して計画したのだろうが、ウェブサイトを見る限り、さほど繁盛しているようには見えないし、ましてや村の活性化に貢献しているようにも思えない。
スキャンダルが影響したのでもあるだろうが、ディナーは2万円からのコース、ランチは3000円の鮭定食だけというのは、信州の小さな村のレストランとしては不似合いなのではないかと思う。ランチの主役が、信州とは縁もゆかりもない銀鮭だということも腑に落ちない。もしもスキャンダルなかりせば、予約の取れないレストランになっていたかもしれない。とあるグルメブロガーがそう書いていた。仮にそうなっていたとして、ほんとうにこの店が地方再生につながるのだろうか。世界中から美食家が押し寄せたからといって、この村の未来が明るくなるだろうか。
以前このコラムでも書いたが、近所に高級中華レストランができ、美食家たちで連日満席続きで、予約が取れない人気店になった。だがこの店ができたことで、界隈に変化があったかといえば否である。美食家と呼ばれる人たちは寄り道しない。まっすぐ店に向かい、まっすぐに戻る。タクシーで来てタクシーで帰る。だから店の近所の人も、どんな客が来ているのか分からない。
美食が日本を再生する。官民挙げての掛け声がうつろに響く。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2023年9月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています