春先にコロナが騒がれ始めてすでに半年。まさかここまで長引くとは思わなかった。多少の影響は残るにしても、飲食店の苦境が延々と続くと予想した人は、ほとんどいなかったのではないだろうか。
なればこそ、テイクアウトや宅配を手掛け、急場をしのごうとしたのに、完全終息はおろか、ある程度の収束さえ視界に入ってこない状態が続くものだから、飲食業を根本から見直さないと、立ち行かないようになってしまった。
では今後、どうすればいいのか。その答えの一つが京都にある。
古くから京都には仕出し文化というものがあり、今で言うデリバリーと、出張料理の混合型として営まれてきた。冠婚葬祭を始め、集いて食卓を囲む時は、外食より仕出しというのが京都人の常だった。
場所は自宅を始めとする住宅だが、出てくる料理はプロの料理人が作った本格派。時にこれは、外食より贅沢な食事となったのである。
とりわけ西陣などの旦那衆の家には、数軒の仕出し屋が出入りし、互いに競い合うのが常のことだった。
時代の流れによって、多くが集える座敷を持たなくなり、仕出し文化が衰微の一途をたどることになってしまったのは、誠に惜しいことである。
それがこの非常時になり、にわかに脚光を浴びることになったのは、なんとも皮肉なことである。
客足が遠のいた飲食店がこぞって、仕出しの真似ごとを始めたのだ。ほとんどはテイクアウトの弁当や総菜セットだけだが、一部の店はコース仕立ての料理を配達するようにまでなった。仕出し復活である。
無論そのことを否とするものではないが、店内での飲食と仕出しでは、調理法が大きく異なることを、当の料理人たちは、承知しているのだろうかと危惧する。
京都では食事スペースを持たず、仕出しと出張料理のみに専念している「辻留(つじとめ)」のご主人に何度か話をうかがったことがあるが、弁当一つとっても、店内で飲食する場合に比べて、留意すべきことは遥かに多いと聞いた。
調理後にどれぐらい時間が経ってから食べてもらえるか不明なので、食中毒予防に万全を期す、などは当然のことながら、冷めてもおいしく食べられるように調味し、それは味覚だけにとどまらず、食感や香りにまで及ぶというのだ。
万事強め、がコツだとも教わった。
火の通し加減、塩加減、甘み、香り付け、酸味などなど、いくらか強めにすることで、冷めていてもおいしく食べられるようになるのだという。
かと言って、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。その案配は季節によっても異なり、微妙なさじ加減は数値化できるものではなく、長年の経験による勘に頼るしかないということだった。
一朝一夕にして、仕出し料理は作れるものではないのだ。
つい先ごろまで一見客を断り、持ち帰り料理などしたことがない料理人が、いきなり手軽な弁当を売り出すには、万全の注意が必要だということを忘れてはならない。
仕出しを手掛けるのであれば、それなりの覚悟が必要なのだが、一時しのぎの踏み台程度にしか考えていない人たちは、決して少なくないようである。
新しい試みを始めるのであれば、不退転の決意を持って臨んでほしい。
近年しばしば話題に上がるものに、同じ関西ながら、京都と大阪では気風が異なることがある。
何かにつけ比較されることが多いのだが、新しいことを試みるに当たっても、助言する側の反応は正反対となることが少なくない。
師匠筋に相談したとして、大阪ではよほどの無理がなければ、「やってみなはれ」という答えが返ってくる。
これに対して京都では、「やめときなはれ」となることがほとんどだ。
長い歴史を持つ京都の老舗料亭がラーメンを作って宅配する。あるいは星付きのフレンチレストランが、シェフの手作り餃子を売り出す。
どちらも売れ行きは上々らしく、同慶の至りだが、果たして長く続けていく覚悟はできているのか。大いに気になるところだ。
あり得ないことだが、もしも僕が相談を受けていたなら、きっと二軒とも、「やめときなはれ」と言っただろう。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。大阪歯科大学卒業後、京都市北区に歯科医院を開業。生粋の京都人であり、かつ食通でもあることから京都案内本を多数執筆。テレビ番組や雑誌の京都特集でも監修を務める。小説『鴨川食堂』(小学館)はNHKでテレビドラマ化され続編も好評刊行中。『グルメぎらい』(光文社新書)、『京都の路地裏』(幻冬舎新書)、『憂食論 歪みきった日本の食を斬る!』(講談社)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2020年10月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています