前回、食の数値化と題して、昨今の食シーンを書いた。
数値というものは、情緒が入り込む余地を持たない。
56度で12分加熱する。そんな記述をしばしば見かけるが、それを書いているのは料理人ではなく、食べる側の人間である。プロのライターだけでなく、最近ではアマチュアのブロガーまでが、そんな数値を書いている。
当然のことながら、それは料理人からの伝言であって、食べる側が推測したものでもなければ、実地に検証したものでもない。
でありながら、それが絶対的価値を持つかのように絶賛するのは、それがある意味で記号化しているからだろうと思う。
たとえば食材の産地。典型的なのが〈京野菜〉。京都の料理屋には〈京野菜〉という記号があふれ返っている。記号はまたブランドと言い換えることもできる。
いずれにせよ、食べる側にとって〈京野菜〉という記号は大きな価値を持っている。
このパターンの記号は枚挙にいとまがない。〈大間のマグロ〉、〈関アジ〉、〈松阪牛〉。誰もが知る有名どころから、〈閖上(ゆりあげ)の赤貝〉だとか、〈金沢八景の穴子〉なんていうマニアックなものまで。名産地と食材の結びつきは、ある意味で記号なのだ。
無論それを否定するものではない。大間の港に揚がるマグロは、それは間違いなく美味しい。
ただ、それを比較検証した人は少ないだろうと思う。国内の名産地でもいいが、たとえばボストンの港に揚がったマグロと比較して、どれほどの差があるのか。自らの舌で検証した人は、さほど多くないはずだ。それでも、ボストンのマグロと言われて大きな反応を示さなくても、〈大間のマグロ〉と言われると、誰もが心を動かされる。つまりこれが記号化ということなのだ。
多くはメディアのせいである。マグロ漁師のドキュメントや、星付き鮨店などを通じて、〈大間のマグロ〉は美味しいという刷り込みがなされ、その記号を見た人は、何も疑うことなく、それが美味しいと決め込んでしまう。
数値化とおなじく、食の記号化は思った以上に進んでしまっていて、誰もそれを疑わないというところに、事態の深刻さがある。
低温調理、熟成、発酵、とメディアは次々と料理の記号をはやし立て、いかにもそれがグルメの最先端だと喧伝する。
ここで気を付けなければいけないのは、記号は使い捨てされるということなのだ。
たとえば牛肉。長く王座に君臨してきた〈霜降り〉は今や敬遠の対象にすらなってしまっていて、代わりに王座に就きそうなのは〈赤身〉だ。ずっと〈やわらか~い〉が最上級の賛辞だったが、今では〈噛み応えがある〉に押され気味である。
しかしながら、これとていつなんどき逆転するかもしれないので、つまりは、作られたいっときのブームなのだ。数値化、記号化はともに、分かりやすさの象徴と言える。少し前の流行り言葉で言えば〈見える化〉の一端ととらえれば分かりやすい。
本来、人の味覚や嗜好は千差万別、人それぞれ異なるものなのだが、スタンダードを設定することで、安心して食を愉しめる、という人が増えてきたのだろう。
人とおなじことをしていないと不安だ、というのは、食べる側だけでなく、料理を作る側もおなじなようで、料理人もまた流行に踊らされているケースは少なくない。
京都の割烹店がいい例だが、おまかせコース一本鎗の店が増える一方なのも、その一例。そして、その価格がじわりじわりと上がっていくのもほぼ横並び―みんなで上げればこわくない―ということだろうか。
店の造りも、置いてあるお酒も、おまかせ料理そのものも、みんなよく似ている。
牛肉を使った料理をコースのあいだに挟むのも、土鍋を使った炊き込みごはんを〆(しめ)に出すのも今の流行りなのだ。
炊き上がったご飯を、土鍋ごと客に見せるのもお約束。
どんなご馳走を出しても、最後は炊き立ての白ご飯に限る。それも椹(さわら)のお櫃に移し、しばらく蒸らしてから客に供する。かつてはそんな割烹があったのだが、今ではめったに見かけない。
数値化、記号化、見える化、パフォーマンス。分かりやすくなればなるほど、料理がつまらなくなる。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。大阪歯科大学卒業後、京都市北区に歯科医院を開業。生粋の京都人であり、かつ食通でもあることから京都案内本を多数執筆。テレビ番組や雑誌の京都特集でも監修を務める。小説『鴨川食堂』(小学館)はNHKでテレビドラマ化され続編も好評刊行中。『グルメぎらい』(光文社新書)、『京都の路地裏』(幻冬舎新書)、『憂食論 歪みきった日本の食を斬る!』(講談社)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2019年12月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています