遠くの名店より近くのおなじみ

食語の心 第66回 柏井 壽

食語の心 第66回 柏井 壽

食後の心 第66回

すぐ近所に、それもはるか昔からあった店なのに、なぜか全く足を運ばなかったのが、ふとした切っ掛けで通い詰めるようになった話を前号で書いた。

それは拙宅から歩いて5分と掛からずにたどり着ける「T」というとんかつ屋。例の口コミグルメサイトにも、全く書き込まれていない店なので、ひっそりと営業している店に迷惑が掛からぬよう、実名を挙げずにイニシャルにした。

その「T」の斜め向かいにある店のことを今回ご紹介するのだが、こちらは店のホームページもあるくらいだから、実名でご紹介することにする。
店の名を「和食庵さら」といい、外観を見る限りにおいては、至極ふつうの佇まいで、すぐに食指が動くような店構えではない。

先の「T」ほどの歴史はないものの、それでも昨日今日できた店ではない。時おり地元のリージョナルマガジンにも掲載され、噂を耳にすることもあったが、なぜか足が向かないまま、長い時が経ってしまっていた。

切っ掛けとなったのは「T」で食事したあと、この店の前を通りかかったとき。お昼も営業しているらしく、妙齢のカップルが店から出てきた。決して後をつけたわけではないのだが、方向が同じだったので、真後ろを歩く格好になってしまった。少し酔っていると見えて、声が大きいから自然と二人の会話が耳に入ってくる。

「やっぱりここまで足を延ばして良かったな。祇園の店だと3倍出しても無理だ。本当にここはいつ来ても、安くておいしい」
口調から推測すると、どうやら主人らしい。

「お昼からご馳走をいただいて、シャンパンまで飲んで、ありがたいことですね」
「シャンパンじゃなくてスパークリングワインだよ。いくらハーフボトルだからといって、シャンパンは1400円じゃ飲めんよ」

二人の会話に鋭く反応した。

全く予想もしていなかったが、なんとスパークリングワインがあるらしい。もう、それだけで行く価値ありだと思い、早速その夜の予約をした。
ガラガラと引き戸を開け、靴を脱いで上がり込む。掘りゴタツ式になったテーブルが3つ4つ。奥にはカウンター席があり、ここもまた掘りゴタツスタイル。

ブックスタイルの定番メニューは、和食全般何でもありの、豊富な品ぞろえ。加えて手書きの本日のお薦めメニューもあって、目移り必至。まずはスパークリングワインのボトルを頼んでじっくりと品選び。

目に付いたのは、本日の八寸。つまりは前菜盛り合わせだ。とりあえずこれを頼んで様子を見る。
居酒屋でいうところのお通し、先附(さきづけ)が出てきて、ここで既に合格点。料理そのものもだが、器がいい。盛付が上品。ホッとひと安心して肩の力を抜いた。

カウンター席といっても、全てが目の前で調理されるのではなく、ほとんどの料理は、奥の厨房で作られる。今はなき名店「桜田」と同じような感じだと言えば、分かる人には分かるはず。
あまりにもパフォーマンスが過ぎる今どきのカウンター割烹よりは、こちらのスタイルのほうが清々しく感じてしまう。

結論から言えば、大満足だった。

何度か通ううちに分かったのだが、経営母体が、京都の食通の間では名の知れた鮮魚商で、魚介類の鮮度と質は他を圧していて、それでいて驚くほどの適価。
だがしかし、素材に頼るような安易な店ではないことが、通う度に分かってくる。となればもう、通い詰めるしかない。少なくとも月に一度は家人を伴って、店に足を運んでいる。

しゃかりきになって、遠くの名店を追い求めている人たちを見ると、なんだか滑稽に思えてくる。わざわざ新幹線に乗って、日帰りで天ぷらを食べに行って、SNSで自慢する。そんな流行に振り回されている人たちはきっと、近くのお店に見向きもしないのだろう。

はるか昔。多くの人がわざわざヨーロッパまで出かけて、ブランドバッグを買い漁った時代があった。それと何が違うのか。僕には区別がつかない。

柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。大阪歯科大学卒業後、京都市北区に歯科医院を開業。生粋の京都人であり、かつ食通でもあることから京都案内本を多数執筆。テレビ番組や雑誌の京都特集でも監修を務める。小説『鴨川食堂』(小学館)はNHKでテレビドラマ化され続編も好評刊行中。『グルメぎらい』(光文社新書)、『京都の路地裏』(幻冬舎新書)、『憂食論 歪みきった日本の食を斬る!』(講談社)など著書多数。

※『Nile’s NILE』2018年10月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「NILE PORT」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。