ことは料理人に限ったことではない。人は甘やかされれば、甘やかされるほど思い上がり、精進を怠るようになる。さらには傲慢になる。
アスリートたちが典型である。スポーツの世界で輝かしい成績を残したアスリートたちの多くは、後進の指導に当たったり、斯界の発展に寄与したりするが、そのうちの何人かは、薬物におぼれたり、暴力事件を起こしたりして、ニュースになることがある。
大抵は記者会見などで、人気におぼれた、とか、おだてられていい気になっていた、などと反省の弁を口にする。
子どもの育て方で、「ほめて育てる」という方法があると聞くが、それとは次元が違う。
無理もない、と言えばその通りであって、アスリートたちは子どもの頃から、ある種のプロフェッショナルとして育てられ、どこか浮世離れしたなかで大きくなってゆく。
順調に成長し、斯界で第一人者として認められるに至って、早々に人生の目的を果たしてしまったかのような錯覚に陥るのも無理からぬこと。
それと比較するのもいかがなものかと思わぬでもないが、若くして修業生活に入った料理人とアスリートは共通点も少なくない。その最たるものが「称賛慣れ」だ。
好成績をおさめたアスリートたちと同じく、いや、それ以上に料理人たちは、称賛の嵐を浴びることがしばしばある。プロのライターから、素人のブロガーまで、ほめ殺しかと思うほど、近頃は料理人をほめたたえる傾向にある。
料理に対する真摯な姿勢、料理を作るときの真剣な表情、そして出来上がった完璧な料理。どうやら、非の打ち所のない料理人が日本中にあふれているらしい。
そんなにすごいのなら、一度行ってみようという食通客が店を訪ねる。
何がどうすごいのか、よく分からないまま料理を食べ終えて、さてSNSに投稿するにあたって、思ったままを書くわけにはいかない。食通を自任している以上、「すごさを理解できない客」と思われたくないからだ。
ライターが書いていた通りに、写真とともに、絶賛するコメントをつづる。と、それを読んだ友人がうらやましがる。その輪はあっという間に広がり、いつの間にかすご腕の料理人という評価が定着する。
多くから称賛されれば、誰でもうれしい。自信を持つ。放っておいても、客は次から次へとやってきて、そのほとんどすべての客が絶賛するのだから、自信満々になる。
ここまではいい。だがいつしか自信は過信に、さらには傲慢へとつながってゆくのが世の常。
かくして、あっという間にカリスマ料理人ができあがる。
メディアというのは軽さが身上だから、新星カリスマ料理人を放っておくわけがない。何一つ検証しないまま、今話題のカリスマ料理人として紹介する。一つの雑誌、一つの局がやれば、必ず他も後追いするのも、今のメディアの悪しき特徴。
一方でそれを見た一般消費者は、これほど多くのメディアで紹介されるのだから、よほどすごい料理を作るのだろうと確信する。
こうしてできた予約の取れない店のカリスマシェフ。料理人としての地位を獲得した(と思い込んでいる)あとに狙うは文化人としての地位。
その第一歩となるのがイベント出演だ。近年は地方自治体からメディア、イベント会社までが手を携えて、食イベントを開催する。容易に集客できて、確実に利益が計上できるからだが、京都などでは、毎週のように、どこかしらで食のイベントが開催されている。
これらのイベントでスターシェフとして登場する料理人はたいてい同じ顔触れ。自分の店にいるよりも、イベントで料理を作ることのほうが多いのでは、と思ってしまうほど。
その料理人を目当てに店に食べに行った客は、さぞや失望していることだろう。
最近では異業種のシェフのコラボレーションという企画も流行しているようで、どうやらカリスマシェフたちは、この手のイベントがお気に入りのようだ。
年に一度くらいのことならいいのだが、毎月のようにこういうイベントに出向くシェフ。本末転倒ではないだろうか。
原点に立ち返って、本来の自分の料理に精進すべきなのだが、ひと度脚光を浴びてしまうと、なかなか地味な仕事に戻れないようだ。
料理人のなすべき仕事は何か。いま一度考え直すべき時期にきている。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2017年8月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています