今から14年ほども前のことになるが、京都本の新たな切り口として「京都の値段」という言葉が頭に浮かび、そのまま書名にして単行本で刊行した。
京都という雅な地を値段で表すのは、いかにも無粋ではないかと思わぬでもなかったが、大いに話題を呼び、即重版が掛かるほどの人気本となった。
1年ほど前にその改訂版を新書の形で出版したが、10年以上もの時間は、当然ながらその“値段”を大きく変えた。
それは物価の上昇率にシンクロするという単純な図式ではなく、ある意味で京都の価値と連動するような、極端な上昇率を見せるものもあった。
しかし中には当時と全く同じ価格のものもあり、その差はどこからくるのか検証してみた。
安価なもので言うと、「近喜商店」という店の“ひろうす”がある。
“ひろうす”とは関東で言うガンモドキ。水分を抜いた豆腐に、すりおろした山芋を混ぜ、油で揚げたものを言う。精進料理を始めとして、いわゆる京のおばんざいにも欠かせない食材である。
これが14年前の本では50円だった。そして昨年度版では60円。
2割も上がった、と言えなくもないが、わずか10円しか上がっていないとも言える。消費増税などをも考慮に入れると、実に良心的だと言わざるを得ない。
“ひろうす”の値段はほとんど変わっていないが、店のある錦市場の変貌ぶりは目を覆うばかりだ。
14年前は、誇りを持って“京の台所”と言えたが、今は食べ歩きストリートと化し、見るも無残な界隈になってしまった。
値段をたどっていると、こんな変貌にも行き当たる。昔から真っ当な商いを続けていた店は、周りがどんなに変わろうと、ちゃんと我が道を行く。
わずかな値上げどころか、値下げしている店があることに驚く。
「北野天満宮」近くに店を構える「粟餅所 澤屋」の“粟餅”がそれだ。
客の注文が入ってから、粟餅を手でちぎり、形を整えてから餡子やきな粉と合わせる。持ち帰りもできるが、出来立てを茶店で食べるのがおすすめ。
菓子皿に載せられ、お茶と共に供される。
14年前は510円。昨年度版は何と450円。60円も値下げされているのだ。
ただし、量は少しばかり減っている。14年前は3個付いていた餡子餅が2個になり、きな粉餅も少し小さくなった。
しかしながらそれは、原価を抑えるためではなく、客のニーズに合わせた結果だった。
観光の途中に茶店でいっぷく。少しばかり甘いものでも、と立ち寄った店で食べるには、以前の量は多すぎた。確かにそうなのである。僕はいつも餡子餅を1個残して、包んでもらって持ち帰っていたが、わざわざ包装してもらうのは、何とも申し訳ない気持ちだった。
きっと同じような客が多くいたのだろう。時代に合わせて量を減らし、そして同時に値段も下げた。以前のままだったとしても、誰も文句は言わないし、客が減ることもなかっただろうに。
これが正しい京都の店の有り様だ。誠実な商いというものだ。昔ながらのたたずまいだけでなく、菓子そのものも、商いの精神も変わることなく営む。
「澤屋」と同じく、長く営む店は大抵が、値段を極端に上げない。例えば茶懐石の仕出しで知られる「辻留」の弁当がそれだ。
独特の形状をした白木の弁当箱も、中に詰め合わされる料理も、そして値段までもが14年の時を経ても変わらない。これは貴重なことだ。
14年前にはいくらか割高に感じることもなくはなかったが、それでも食べれば必ず納得した。
今となっては5,000円は割安に感じられる。コースで食べれば1万5,000円はゆうに掛かるだろう料理のエッセンスがぎっしり詰まったお弁当。
ここもまた、その誠実な商いを映すかのように、店のたたずまいは古色蒼然としている。この辺りが値段の変遷を最小限にとどめる秘訣なのかもしれない。
と、ここまでは変わらぬ“食の値段”を書いてきたが、これらは数で言えば、ほんのわずかな例であり、京都の食は、その多くが14年前とは比べることもできないほど高騰している。それはもちろん京都人気にスライドしてのことだと思うが。
次号では、その事例を書くこととしよう。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2017年5月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています