前回は、明治から大正にかけて、京都で生まれた洋食について書いた。
花街洋食と呼ばれる洋食は、花街で遊ぶ旦那衆が育て、芸妓舞妓に愛され続けて今に至る店。
それらの多くは、花街にふさわしく、決して安価とは言えない価格設定で、庶民には縁遠い店だったと言われる。
旦那衆が好んで食べる料理は、職人たちも興味津々。話だけ聞いているのではつまらない。手ごろな価格で食べられる洋食はないものか。そんな話を聞きつけて、とある洋食屋で働いていた料理人が、手軽な洋食屋を開くと大当たり。職人たちだけでなく、家族連れまでもが店に押し寄せ、たちまち評判を呼んだという。
花街洋食から職人洋食へ、さらには家族洋食へと、京都の洋食は広がりを見せ、市内のあちこちに洋食屋の看板が上がることとなった。
第二次世界大戦を挟んで、京都の洋食屋は全盛を迎え、やがて個性を競う時代へと移ってゆく。
となってくると、洋食という言葉がひとり歩きを始め、さまざまに解釈した洋食が巷に現れる。
今も大和大路通の四条を上ったところに店がある「壹銭洋食」などがその好例で、ソースの味、すなわち洋食となって生まれた料理。大正の終わりごろから昭和の初めにかけて、大ヒット商品となった。
これは後にお好み焼きという形に変わってゆくのだから、ある意味ではお好み焼きも洋食の一種と言えなくもない。
明治期に開店した洋食屋は、西洋から伝わってきた料理を多少はアレンジするものの、基本的には忠実に再現することを旨とし、レシピは本場とさほど違わない料理を供していた。
それが昭和に入ると、個性あふれる洋食が誕生し、いわば和風洋食とでも言えるような、日本独自の洋食が、京都中に広く普及してゆく。
とうの昔に店仕舞いをしてしまったが、洛北の御蔭通に「グリルフルヤ」という洋食屋があり、ここのビーフシチューは独特の味わいで人気を呼んだ。
かの池波正太郎もその著書の中で絶賛しているが、花街でもなく、職が多く住まう西陣界隈でもない、どちらかと言えば、高級の部類に入る住宅街にも、個性的な洋食屋が店を開くようになる。
同じような立地条件の、洛北下鴨、洛北高校のすぐ近くには、「グリル・オーツカ」や「グリル富永」という優れた洋食屋があったが、どちらも惜しまれつつ、昭和の終わりとともに店仕舞いをした。
「グリル・オーツカ」はオムライス、「グリル富永」はハンバーグ、とそれぞれ名物料理があり、それもまた京都の洋食屋の特徴でもあった。
今も健在なのは「グリルのらくろ」。同じく洛北下鴨の住宅街にあって、「トルコライス」を名物料理としている。
店名から推察できるとおり、漫画の「のらくろ」が流行した昭和初期の創業。創業当時にはなかったという「トルコライス」は長崎名物とネーミングは同じでも、中身はずいぶんと異なる。
長崎の「トルコライス」は、カレーピラフ、トンカツ、スパゲティの三つをひと皿に盛り合わせた料理を言うが、「のらくろ」のそれは言ってみれば洋風カツ丼。
ケチャップライスの上に半熟のオムレツが載り、さらにひと口カツが数切れ載る。
カツと半熟玉子の混ざり加減がカツ丼を思わせ、しかしその下のケチャップライスを見れば、オムライスにも似て。カツオムライス、というのが正確な表現かもしれない。
この「トルコライス」は「のらくろ」のオリジナル料理で、これが京都名物となって広がらないのも、京都の店の特徴である。
これが地方の店だったなら、他の店も追随し、街おこしの一翼を担うことになるだろうが、京都という街では、店のプライドもあってか、オリジナルは大事に尊重される。
昭和46(1971)年の創業ながら、「ピネライス」という名物料理を掲げ、一躍人気店となった「キッチンゴン」も同様で、どこもこれを真似しない。
二条城にほど近い、堀川下立売近辺にある「キッチンゴン」は地元民に愛される店だけあって、いつも客であふれ返っている。
そのほとんどが食べている名物「ピネライス」は、千切りキャベツを添えたヤキメシの上に、薄いカツが載り、その上からカレーを掛けた料理。ボリューム満点で、濃い味付けはいかにも職人好みだが、京都で学ぶ学生たちにも大人気。
京都で生まれた花街洋食は、学生洋食へと広がっている。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2017年1月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています