いつのころからか、特別のおいしさを求めることが多くなってきた。
いわく、ここでしか食べられない味、今しか味わえない料理。
日本一おいしい、世界一の料理。
スペシャルこそが、美味の真髄とでも言わんばかりに、特別感を競う。
とあるフレンチ。誰それさんが作った野菜と、ナニガシさんが一本釣りした魚を、シェフが編み出したスペシャルソースで食べる料理というのがメニューにあった。
そう聞けば食べずにいられないのが、今の客というもので、同行者は迷わずそれを選んだ。
僕はメニュー名が長い料理は苦手なので、子羊の網焼きとだけ記されたメニューをオーダーした。
待つことしばし。同行者の前に置かれた料理。僕には、ただのアジフライにしか見えなかった。
ナントカチーズを粉末にして、それをパン粉に混ぜ、アジにまぶして揚げ焼きにしました。カントカさんの畑の朝採れの水茄子を添えてあります。
おおまかには、そういう説明だったようにと思う。だが話はそれで終わらない。そのアジを釣り上げるのには、どれほどの困難があり、水茄子もしかり、それを収穫するまでには、言葉に尽くせぬほどの労苦があって、シェフがこのソースを編み出すまでに10年掛かったと言われて、客はそれにひれ伏すしかなかったのである。
それほどのこだわりを持って作られた料理だから、もちろんまずいわけがない。ひと口ばかり味見をしたが、それはそれはおいしい料理だったことに間違いはない。それを横目に食べた子羊の網焼きも、無論のことおいしかった。
それから半月ほど経ったある日の昼下がり。なじみの食堂に立ち寄った。ミンチカツ狙いだったのだが、「アジフライあります」との貼り紙を目にして、そちらに変更。
さほどの待ち時間もなく、目の前に現れたのは、昔ながらのアジフライ。千切りキャベツを枕にして、開いたアジのフライが三切れ。タルタルが添えられるわけもなく、テーブルのウスターソースを掛けて食べよとの主人のお達しにしたがい、たっぷりと掛ける。
細切れ豆腐の味噌汁、色濃き柴漬けと沢庵を合いの手に、ご飯に載せて、黙々とアジフライをむさぼり食う。途中で練り辛子をリクエスト。あろうことか、目の前でチューブを絞って皿の隅っこに。
開いたアジフライを、箸で半分に千切り、ソースをたっぷり掛けて、練り辛子を載せて、ご飯の上に。
ソースの染みたご飯もだが、アジフライがおいしい。特別なものではない、ただのアジフライが、悔しいくらいに旨い。
「どこのアジ? そんなん知りまへん。いつもの魚屋はんが持ってきてくれたんでっさかい。キャベツ? 普通のキャベツですがな。難しいこときかんといてくださいな」
店のオバチャンが面倒くさそうに答える。
先のフレンチでは3,000円を軽く超えていたメニューだが、この食堂では、単品ではなく定食になって600円。つまりは5分の1以下。
これをどう食べ分けるかは、客の判断に委ねられる。安ければ良しとするのか、高くてもブランドを優先させるのか。
時代の流れは後者だろうか。
飽食の時代と言われて久しい。食材も選りすぐり、調理法も、味付けも特別のものでなければ価値を認めない。俗に食通と呼ばれる人たちの価値観に、多数がしたがう流れが出来上がっている。
名もなく貧しく美しく。は、とうに死語となってしまった。
名もあって、貧しくなければ、美しくなくともいい。それが今という時代だ。
意外に思われるかもしれないが、特別なおいしさに出会うことは、さほど難しくはない。世の中に、特別があふれているからだ。それに比して、普通においしいものと出会うのは、極めて難しい。なぜなら、それらは何も主張せず、じっと影を潜めているから。
普通においしいものを食べたい。そう思うことが少なくない。たとえばラーメン。あるいは蕎麦、もしくはカレー、とんかつ。
食べ慣れた味。懐かしい味。いつもの味。普通においしいものが貴重に思える。不思議な時代になったものだ。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2016年8月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています