ありがたいことに、日本には四季というものがあり、季節の移ろいとともに、美味しいものが入れ替わる。
四季を際立たせる国に生まれてよかった。季節が変わるごとに、つくづくそう思う。
それはしかし、ただ食という面だけでなく、季節が変わることで、暮らしにも変化が生まれ、文章でいうなら句読点のようなもので、日々の生活にメリハリが出る。
衣替えという習慣などは、その最たるもので、日本ならではのことだろうと思う。寒暖の差が激しい京都では、衣服のみならず、部屋の設えまで季節に応じて替えてしまう。
その習慣は、京都の町家に陰影をもたらすことにも、ひと役買い、街の景観までをも変えてしまう。
夏が近づくと、部屋を仕切っていた襖(ふすま)が御簾戸(みすど)に代わり、畳の上には網代(あじろ)が敷かれ、窓の外にはすだれが掛かる。これによって町家の眺めは一変し、京の暑さを目からやわらげてくれる。
季節が移ろうことで、街の眺めが変わることなど、日本以外にはないだろうと思う。
ここで興味深いのは、季節と食がシンクロすることである。四季折々、その時々にしか食べられない食があり、それは概ね、季節の様子と一致するのである。
たとえば春。春夏秋冬の中で、誰もが一番待ち焦がれる季節。
雪深い北の国はもちろんのこと、南国九州であっても、多くが春を待ち望んでいる。
その春の訪れと共に出回る食材といえば、どれもが生命の息吹を感じさせるものばかりなのは、決して偶然とは思えない。
たとえば山菜。フキノトウ、コゴミ、ワラビなどなど。どれもが溌剌とした緑を湛え、芽吹きの季節を表している。
もしくは筍(たけのこ)。春のご馳走を代表する食材は、土の香りをたっぷりと蓄え、雪解けの山が与えてくれる貴重な恵み。
山菜と筍。その味わいにおいて、両者に共通するのは、苦みとえぐみである。
俗にいうアクが強い食材。
野菜に限らず、食材が持つアクというのは、食べる側の人間からの観点であって、食材の側からいえば、そのアクこそが生命力なのである。
つまり、アクというのは、食べる側からいえば、過剰な生命力。身体が取り込むことを拒むほど、強い力を持つものを、我々はアクと呼んでいる。
山菜も筍も、新鮮なものほどアクを抜かないと食べられないことを、人は経験上知っている。
ある程度のアクを抜いたこれらの、苦みもえぐみも、覚醒力を持っている。それこそが春の食材の、最大の特徴だ。
長い冬の間、眠りに就いていた人々の魂や脳を目覚めさせ、次なる活動へとつなげる役目を、春の食材が担っていることに気づく人は、決して多くない。
野の食材だけではない。海の恵みも然り。春から夏に旬を迎えるそれらは、どれもが強い生命力を湛えていて、それゆえ独特の風味を持っている。
代表的なものといえばホタルイカだろうか。これほどに春を謳う食材も他にないのではないか。そう思うほどに、春の訪れと共に、メディアの話題に上る。
越中富山がその発信元。夜の海に、群集する蛍のように、青く妖しく光る灯りが集まり、その正体がホタルイカだと知らせる。
産地に近いところや、都心、京都などの大消費地では生で食べることも少なくないが、たいていは茹でて食べる。
透き通った身も、茹でると褐色の斑点を全身に現し、見慣れたイカの姿になる。
おとなの親指ほどの大きさだが、そのワタの濃密な味わいといえば、上海蟹のミソに勝るとも劣らない。山野の恵みと同じく、わずかながらえぐみも感じられる。
口に入れて、舌から喉へ、胃袋へと、すんなりとは通っていかない。その引っ掛かりこそが、ホタルイカの醍醐味であり、季節が移ろうことの徴でもある。
五味という言葉があるが、きっと人間の味覚というものは、五つに留まるものではないだろうと思う。
その間ともいえる、苦みとえぐみを心置きなく味わわせてくれるのは、春しかない。それが日本という国であり、日本に住まうしあわせなのである。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2016年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています