生き物はすべて、それなりの時間を掛けて成長する。
たとえば米。種をまいてから収穫するまでに長い時間と手間が掛かる。
春に種をまき、健康な苗を育てる。初夏ともなれば、田んぼをたがやし、肥料をまく。田植えの準備である。
代かきをし、ようやく田植えができる。植えた後も大事な仕事が待っている。水の多寡を管理し、雑草から稲を守り続けねばならない。
梅雨のころには、田んぼに溝を掘り、中干しをし、追肥を与える。
そして夏。病気や害虫から稲を守るという厄介な仕事が続く。
待ちわびた秋になり、穂が出てから稔る様をじっと見守る。ようやく稲を刈ることができる。が、まだまだこれで終わりではない。稲を干し、玄米にすることで、ようやく米としての形になる。
八十八と書いて米という字になる。つまりは八十八もの手間が掛かるから、この字になったというが、実際にはそれ以上の手間と日にちが掛かっているはずだ。
ではそれを、もっと短期間で、手間も減らして、米ができないか。答えは否である。
月に人間が行くようになり、車は自動運転が可能になり、ありとあらゆるものが機械化された今日でも、ひと月で米を作るのは無理なのである。それが自然の摂理というものなのだ。仮に成長促進剤などの薬物を使って、可能になったとしても、誰もそんな不自然な米を食べようとは思わないだろうし、美味しい米ができるはずがないと思っている。
人間もそうだ。生命が芽生えてから、赤ん坊となって生まれてくるまでに十月十日が掛かる。この間の母親の労苦があってこそ、健やかな赤ん坊が生まれてくる。
そして生まれてから、一人前の人間として育つまでには、おおよそ二十年が掛かる。
これを短縮できないか。三月ほどで生まれてくるようにできないか。三年ほどで大人になれないか。
どちらも否であろう。いくら医学が発達したといっても、そんなことは無理に決まっている。
作物にしても、生き物にしても、それなりの時間と手間が掛かるのは当然のことなのだ。
長々とこんな当たり前のことを書いてきたのは、最近〈三カ月で寿司屋になれる〉などというバカげたシステムが注目されているからである。
最初は悪い冗談だろうと思っていた。鮨に限らず、飲食店というものは、そうそう簡単に開けるものではない。素人居酒屋とはわけが違う。仮にも日本の和食文化を象徴する鮨屋が、三カ月程度の教習で開けるものか。
それがどうだろう。素人が実際に鮨屋を開いているのである。しかもその内の一軒は、かの赤いガイドブックで星を獲得し、予約の取れない人気店となっていると聞いて、腰が抜けるほど驚いた。
たった三カ月の教習で開いた鮨屋に人気が集まる。この事実が何を意味するかといえば、食べる側の著しい堕落だ。
たしかに、少しばかり器用な人間なら、ある程度の知識と練習で鮨屋を開業することはできるだろう。だがそれは、あくまで形だけのものだ。
客との接し方、客の好みを見抜く力。季節による食材の微妙な変化。日々の気候によって、酢加減を細かく調節すること。それらを習得するには少なくとも数年を要するはずだ。
そしてそれらが真っ当なレベルに達しているかどうかを判断するのは客のつとめだったはずなのだが。
あるテレビ番組で、件の星付き鮨屋を紹介していた。いかにも今風小ぎれいな店だが、その握る手つきは、どう見てもたどたどしい。たとえるなら、来日して間がない外国人の話す日本語。
だが居並ぶ客たちの誰もがそれを見抜けず、ただただ絶賛する。つまりは星が付いているという先入観によって、完全に思考が停止してしまっているのだ。
しかしながら、この鮨屋は、ほんの一例で、行列ができる店、予約の取りづらい店のうち、決して少なくない数の店が、同様の体たらくだ。それは僕自身が、目で、舌でたしかめたのだから間違いない。
〈三カ月で寿司屋を開く〉ことを教える側は「長い修業期間は無駄」と言い切ったのだそうだ。
料理というものは、ただ技術だけではない。食べる側の心根に寄り添い、いかに美味しく食べてもらうか、に心を砕くことこそが肝要なのだ。それを体得するには、三カ月はおろか、三年でも無理だ。
まずは食べる側が、そのことを理解しないと、日本の鮨は崩壊する。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2016年3月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています