京都の街の中心地とも言える河原町御池(かわらまちおいけ)。夏に行われる祇園祭の山鉾巡行では、この角で辻回しが行われることから、多くの見物客が押し寄せる場所だ。
北東の角には、京都の老舗ホテル「京都ホテルオークラ」があり、北西の角には、レトロな建築が残る京都市役所が建っている。
ここに市役所前広場があり、市民の憩いの場となっている。ベンチに座ったお年寄りがパンくずを撒くと、たくさんの鳩が舞い降りてくる。ベビーカーを押すお母さんが、それを見て歓声をあげる。
そんな、のんびりとした広場が、最近は仮設テントだらけになり、時ならぬ行列があちこちにできるのだ。
ほぼ毎週といっていい。様々な食フェスが開かれるのである。いわく〈肉フェス〉、〈京都メルカート〉、〈京都パンフェスティバル〉などなど。
フェスという言葉が付いているが、見たところ、学園祭の屋台と大差はない。キャンパスと異なるのは、そこに群がる客たちが皆、立派なおとなだということ。
たとえば〈肉フェス〉。京都の有名肉料理店が屋台を出す。焼肉もあれば、今流行りの熟成肉ステーキもある。ハンバーグもある。となれば、当然のごとく煙もうもう、バーベキュー臭が辺りに広く蔓延する。
これが土曜日曜の2日間に渡って行われるのだから、近隣住民は大迷惑だろう。
花見のころ。桜の下でバーベキューを愉しむ人たちが居る。本人たちは愉しいだろうが、近所に住む人たち、あるいは純粋に花見をする人々には迷惑でしかない。一年に一度のことだから、と大目に見ているのが現状だろうと思う。
だがしかし、京都では毎週のように、しかも市内の中心地で行われているのだ。それもお役所が後押しして、地元のリージョナル・マガジンが主催する。
京都人は、子どもの頃から立ち食いを強く戒められてきた。祭りの屋台で買った焼きそばですら、家に持ち帰って、食卓で食べるように教えられた。
それを考えると隔世の感がある。
では何故、立ち食いをそれほど忌み嫌ってきたのか。
言うまでもなく、食は人として欠かすことのできない営みであり、性や眠りと同じく、本能的欲求に基づくものである。なればこそ、妄りであってはならないのだ。
人前で居眠りするのは、みっともないことだし、ましてや性となれば秘めたるものでなければならない。
食も然り。欲求の赴くままの姿をさらすのは醜悪以外の何ものでもない。だから飲食店で行列を作るのは慎むべきなのである。
屋台で買って、その場で貪り食うのではなく、きちんと食卓に着いて食べる。それは食に対する敬意であり、感謝の気持ちを表すこと。
朝昼晩。家であっても店で食べるにしても、節度を守ることが肝要。本来、人が食べるべき場所ではない広場で、異臭を漂わせて立ち食いするなどもっての外だと僕は思うのだが。
そもそも巷に、食が溢れすぎているのではないか。
衣食足りて礼節を知る。はずだったのが、食が過ぎたことで、礼節をわきまえなくなってしまった。それは祭りの後を見れば一目瞭然。
フェスなるものが終わった後。割り箸や使い捨ての紙皿や、トレーがあちこちに散乱している。ゴミ箱から溢れでている。地面には食べかすや残滓が散らばり、カラスが狙いを定めている。
主催者側のスタッフがそれを掃除するが、においまでは拭い去れない。きっと翌朝まで残るだろう。
食フェスブームなのだろう。市役所前広場だけではない。神社や寺でも、競い合うようにマルシェだとかフェスが行われている。あろうことか、世界遺産に指定されている神社でも同様のイベントが行われ、案の定残飯臭が境内に漂っていた。
食い散らかす。そんな言葉がすぐ頭に浮かぶのが、昨今の食事情である。
僕が直接見聞きしたわけではないが、先の戦争が終わった後、食の配給を受けるための、長い列があちこちにできたそうだ。その様子を写した映像を観ると、食フェスの人気店に並ぶ人々とよく似ている。前を覗き込み、早く自分の番にならないかと心待ちにする顔。
だが根本的に異なるのは、前者は餓えに苦しみ、それから逃れるために列を作っているのであり、後者は飽食の上に更に飽食を重ねようとしているのである。どちらが人間として正しい姿か。言わずもがなだろう。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2015年12月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています