たとえば僕の子供のころ。つまりは今から半世紀ほど前のこと。一日三度、必ず母親が料理を作った。
朝はご飯と味噌汁。そこに目玉焼きか、出汁巻き卵が付いた。焼き海苔、漬物が添えられ、これでご飯を二杯食べて学校に向かうのが常だった。もちろん母親お手製の弁当を携えて。
夕方、学校から戻ると、母親は夕食の支度をしている。それを横からのぞき込み、時には手伝い、たいていは邪魔をした。
当たり前のことだが、朝も昼も夜も、そこに既製品の入る余地はなかった。ようやく冷蔵庫が普及し始めた時代。冷凍庫など夢のまた夢だったから、当然のことながら冷凍食品など見たこともなかった。
お米をといでご飯を炊く。無論のこと、電気釜などというものはなく、ガスコンロに載せた羽釜で炊いていた。
「はじめチョロチョロ なかパッパ 赤子泣いても蓋取るな」
節をつけて、必ずこんな歌を歌いながら炊いていた。
その合間に出汁をひいて、味噌を溶かして味噌汁を作る。いとも容易く作るのを横で見ていて、料理の愉しさを知った。
それから半世紀。料理の環境がこれほど激変するとは思ってもみなかった。
おさんどんという言葉はもはや死語と化した。そう言ってもいいだろう。もちろん、「わたしは毎日三回、ちゃんと料理を作っています」
そうおっしゃるお母さんもおられるだろうが、きっと少数派だと思う。
冷凍食品、レトルト食品、コンビニ、多種多様な既製調味料など。昔はなかったものを使えば、調理過程は簡単に短縮できる。それが証拠に、〈時短〉という言葉が、料理用語として、まかり通っている。
そんな料理の様を見て育った人たちは、店での調理過程にいちいち感動する。
ざるに載った野菜を見て写メを撮り、ただそれを焼いただけのものが、皿に載って出てくると、また写メを撮る。シャッターを押す度に歓声を上げる。
最も顕著なのが、ご飯だろう。土鍋で炊くご飯。炊く前の状態をプレゼンされて、レンズを向け、炊き上がった土鍋ご飯を見せられて、またシャッターを切る。ワーワー、キャーキャー。ただご飯を炊いただけのことに、なぜそんな大騒ぎをするのかと言えば、日常見慣れない光景だからだろう。
パックご飯で済ませないにしても、ご飯を炊くのは電気釜。無洗米などという存在もあるから、ご飯は自動的に炊きあがるものと思い込んでいる。そこへ持ってきて、アナログ風にご飯を炊けば、ただそれだけで感動してしまう。つまりはこういう図式によって、今のグルメブームは成り立っているのである。
だから素人同然の若い女性が、料理家を名乗り、自宅で料理教室を開いても、すぐに受講生が集まり、人気料理研究家として、持て囃される。
家庭で、真っ当な料理を作る機会が激減したことで、料理経験の乏しい世代が生まれ、玉石の区別が付かなくなってしまう。
京都の割烹の草分けとして知られる店の主人曰く、「今の時代ほど、料理人が持て囃されることは、これまで一度もなかった」
名だたる食通が通い続けてきた店。客から厳しい叱責の言葉を浴びることはしばしばでも、褒められることは稀だったという。
その理由のひとつとして、僕が先に書いたことを挙げた。早くからそのことに気付いていた主人は、正しい料理教室を開き、もう五百回を超えたという。
主人が教えるのは料理の基本。それは長年に亘って包丁を握り、客と対峙してきたからこそできることで、大した経験も持たない若い女性が、料理家という肩書だけを旗印にする料理教室とは根本が異なる。
手が汚れるからといって〈おにぎらず〉だとか、魚の骨が面倒だといって〈骨なし魚〉を使う。器使いも知らなければ、盛り付けの基本すら知らない。こんな人たちが流行に乗って、料理を語り、あまつさえ人に教えるとなれば、間違った料理知識が広まるのは当然のことだろう。
店に行けば、料理や料理人を褒めちぎり、素人の料理家に料理を学ぶ。和食が文字通り〈遺産〉となり、現存しなくなる時代は、すぐそこに来ている。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2015年8月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています