食語の心と題して、食の話を縷々(るる)綴ってきたが、この間、日本の食事情は悪化の一途をたどっている。
それは飲食というより、淫食とでも呼びたくなるような、何とも情けない話で、その第一の要因は、客と料理人の間が、極めて近くなってしまったことにある。
本来店側と客の間には、結界とも呼ぶべき、厳然たる境界があり、互いにそこから先には立ち入らないことを旨としていた。
何もそれは飲食店に限ったことではなく、店と客は互いの立場を尊重し、敬意を払いながら、親しく接してきた。どんなに親しい常連客であっても、それこそ〈親しき仲にも礼儀あり〉。店で接客する際は、節度をもって臨み、客もまた同じく、慎みをもって店と、主人と向き合ってきたものである。
たとえば、とある馴染みの割烹。至極気軽な店で、今どきのコース一本槍の高級店ではなく、しかし居酒屋とは一線を画すような、凛とした空気が流れる店。
多いときは月に二度、三度、少なくとも一度は通う店で、居心地の良さと、旨い料理に、大抵は深酒をして、くだをまくこともしばしば。
そうなると、決まって僕は主人に酒をすすめるのだが、主人は杯を受けて、恭しく捧げ持ち、口を付けるだけで一礼して杯を僕に返した。
きっと酒に弱いのだろうと長く思い続けていて、あるとき、居酒屋で偶然出会い、その酒豪ぶりに驚いたのだった。
波々と注がれたコップ酒。口から迎えに行って、くいくいと、音が聞こえてきそうに、実に旨そうに飲む。一気に飲み干して、お代わりを頼んだところで、僕と目が合った。
気恥ずかしそうに会釈して、頭をかく主人に話を聞けば、
「お客さまと同じように、料理人が店で酒を飲んではいけないと、親方にきつく言われましたから」
きっとこれが本来の姿なのだろうと、深く感じ入った。
店においては、主人はもてなす側で、客はそれを受ける方。同じ土俵に上ってはいけない。それでこその割烹なのだ。
いつの頃からか、小さな店を貸し切りにして、仲間内での食事会を催すことが目に付く。僕はそういう機会を持ったことがないのだが、グルメブロガーやフェイスブック友達の投稿を見ると、頻繁に行われているようだ。
他に客がいないという安心感がそうさせるのか、写真は撮り放題。カウンターを挟んで、客と主人が幾度もグラスを合わせている。
客は席を移動し、無法地帯の様相を呈している。
これが、そこいらの居酒屋なら何も問題はないのだが、半年先まで予約が埋まる人気割烹。基本的には取材お断り。客が料理写真を撮ることも禁じられている店なのだ。
いったいこの差は何なのだろう。僕には不思議で仕方がない。誰に向けての店なのか。
馴染客で席を埋めれば、店は売り上げが保証され、客は相客を気に掛けることなく、自由奔放に振る舞えるから、両者の利害が一致したのだろう。
だがそれが果たして、店としての真っ当な姿だろうか。
東京、大阪では至極普通のこととして行われてきた、貸し切りの食事会。京都とは無縁だったはずが、いつしか当たり前のように開かれているようだ。当然のことだが、当日は、一般客は閉め出され、食事はかなわない。
淫食という言葉を使ったのは、ここに因がある。店を借り切った客も、それをよしとした店も、どちらも食を淫らなものにしている。
本来、食とはもっと清らかであるべきもので、それはすべての客に等しく接するという、正しい有り様を明らかにしなければならない。
店とは、客とは。その姿が問われている。
さまざまにその境界が曖昧になる、日本の食。プロとアマの境目も日々危うくなり、自称料理研究家などというアヤシゲな人物が、料理のイロハも知らずして、料理教室を開いたりする。
あるいはただ、食べ歩きを繰り返しているだけのブロガーが、カルチャーセンターで、講座という名の、ただの食事会を催す。
かくして日本の食は淫らになる一方で、それを後押しするメディアの存在も相まって、ユネスコ無形文化遺産としての和食も、風前の灯火と化している。店も客も、そしてメディアも、真っ当な外食の姿を見直さなければ、決して世界に誇れるものとはならない。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2015年4月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています