寿司と発酵の関わり

食語の心 第21回 柏井 壽

食語の心 第21回 柏井 壽

食語の心 第21回

発酵という過程を経て、美味となる日本の食は数限りなくある。そもそもが、調味料からして発酵させてできたものがほとんどなのだから、当然と言えば当然の話。
たとえば、大人から子供まで、誰もが好物として、その名を挙げる寿司。これもまた、元は発酵食だった。

琵琶湖の北端に近い西岸に、海津(かいづ)という集落があり、遅咲きの桜で知られ、船から眺める湖岸の桜は、この世のものとは思えぬ優美な姿を見せ、湖面にはらはらと散る桜吹雪など、まさしく幽玄の世界。

その海津に「魚治(うおじ)」という店があり、その名物が鮒寿しである。その鮒寿しこそが、今我々が食べていた寿司の原型なのだが、見た目はとても寿司に思えない。

鮒寿しの歴史は古く、奈良時代にはすでに作られていたと見えて、屋王の木簡に鮒鮨の字が残されているという。
平安時代には近江から天皇家にしばしば献上されたという記録が残り、江戸時代には近江名物として定着していたそうだ。

往時と比べて、その作り方に大きな変化はなく、簡単に言えば、鮒と米を合わせ、発酵させて保存食としたもの。

春、卵を抱えたニゴロブナを塩漬けにして3カ月置く。夏の土用にご飯に漬け込み、ふた冬かけて熟成発酵させる。「魚治」では今も古来の製法を守り続けている。

乳酸菌の力で発酵した鮒寿しは、独特の香りを放ち、これを苦手とする向きも少なくないが、その深い味わいは、一度食べるとクセになるほどで、ニゴロブナの激減に伴い、年々高騰する価格が恨めしい。

「魚治」の鮒寿しを存分に味わえるのが、併設された「湖里庵(こりあん)」という料理旅館で、長年、鮒寿しを苦手としてきた客が、ここで鮒寿し懐石を食べてから、好物になったという話もある。
日本古来の伝統食である鮒寿しを、洗練の技でアレンジし、斬新なスタイルの懐石コースに仕立てた料理を、こよなく愛したのは、作家の遠藤周作で、「湖里庵」の名付け親でもある。

さて、その鮒寿しが、熟(な)れ寿しとして人気を呼ぶこととなり、平安以降、日本各地で、鮒以外の魚をご飯に漬け込む熟れ寿しが生まれた。

保存食という形でスタートした熟れ寿しだが、珍味としても重宝され、いつしかご飯と魚を合わせるだけという早寿しが流行し始める。それをさらにスピードアップしたのが、今の江戸前鮨である。
ご飯が発酵する過程で生じる酸味を、酢を使うことで、最初からご飯に施すという発想が、いかにもせっかちな江戸っ子らしいところ。

酢と塩でご飯に味を付け、それと魚を合わせ、即席の熟れ寿しを作る。ここでポイントとなるのは酢。酢もまた、発酵というプロセスを経て出来上がる調味料。時間の長短はあれ、奈良時代に作られ始めた鮒寿しと、今の江戸前鮨は、同じ発酵食ということになる。

ではあるが、ベルトコンベヤーに載って運ばれてくる、回転寿司や、スーパーマーケットで売られているパック寿司も、発酵食の範疇に入るかと言えば、これはいささかなりとも疑問が残る。

前者の場合は、回転台の中で職人が握っているケースもあるが、多くは後者と同じく、寿司ロボットが作っている。その様子を見たことがあるが、ネタは寿司飯に瞬時に押し付けられ、寿司の形になる。言ってみれば刺身載せご飯である。

これと江戸前鮨が明らかに異なるのは、職人の手によって、寿司ネタと寿司飯が、熟れ合わされること。
職人によって、その握り方はさまざまで、小手返し、本手返し、横手返しなどがある。多少の時間の違いはあるものの、どれも職人の指先で寿司ネタと寿司飯をなじませ、瞬間的に熟れさせる。寿司飯の酢が短い時間ながら寿司ネタに浸透するのだ。

なんともあっぱれな知恵である。江戸前鮨の名店などで、主人の握る姿を見ると、指先に全神経を集中させ、幾度か握り返し、そっとつけ台に置く様などは、いなせ、粋、そのものだが、そこには発酵や熟成といった、日本古来の手法が発揮されているのである。

余談になるが、近年どうも刺身が苦手な食べ物になってきた。とりわけ大きな切り身だと、のどを通りづらくなり、ましてや船盛りなどは、見ただけでうんざりする。

だが不思議なことに鮨という形になると、いくらでも食べられる。そんな話をすると共感の声を上げる友人は少なくない。
きっとこれは、発酵と関係があるのだろうと思っている。

柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。

※『Nile’s NILE』2015年1月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

ラグジュアリーとは何か?

それを問い直すことが、今、時代と向き合うことと同義語になってきました。今、地球規模での価値観の変容が進んでいます。
サステナブル、SDGs、ESG……これらのタームが、生活の中に自然と溶け込みつつあります。持続可能な社会への意識を高めることが、個人にも、社会全体にも求められ、既に多くのブランドや企業が、こうしたスタンスを取り始めています。「NILE PORT」では、先進的な意識を持ったブランドや読者と価値観をシェアしながら、今という時代におけるラグジュアリーを捉え直し、再提示したいと考えています。