〈すし〉とは何か

食語の心 第7回 柏井 壽

食語の心 第7回 柏井 壽

食語の心 第7回

食にまつわる話で、しばしば繰り返し話題になるのが〈最後の晩餐〉。明日地球が滅亡すると分かったら、前の晩は何を食べたいかという設問。

滅亡前夜に、呑気に飯など食ってる場合じゃないだろう、という野暮な言い草は抜きにして、僕なら迷うことなく鮨(すし)。支払いのことなど気にせず、名職人の握る江戸前鮨を思う存分堪能して、この世とおさらばしたい。そう言えば、多くが賛同してくれる。

老若男女を問わず、日本人は大抵鮨が好きだ。鮨。だが、その表記は幾つもある。一般的なのは〈寿司〉か〈寿し〉。〈鮓〉と書く場合もある。どれも同じようだが、微妙にニュアンスが異なる。

先に書いたように、正統派の江戸前なら〈鮨〉。カウンターで回っていたり、デパ地下に並んでいる握りは〈寿司〉。稲荷や巻き、ちらしなどは〈寿し〉。もっともこれは、勝手な僕のイメージであって、世間一般には通用しないかもしれない。そして一番馴染みが薄いだろう〈鮓〉。これは僕の中では寿司の原点になっている。

そもそも〈すし〉とは何か。ここで少し成り立ちを振り返ってみる。

今でこそ、酢飯とネタ、あるいは具が一体となったものを〈すし〉と呼ぶが、元を質せば保存食として、米を発酵させたものを〈すし〉と呼んだ。いわゆる〈ナレズシ〉。その発酵の手伝いをした魚を一緒に食べたのが〈すし〉の始まり。寿司の元祖とも言われている鮒寿司がその代表。

古く奈良時代までさかのぼると言われる鮒寿司は近江が本場。1300年を経た今も、連綿と作り続けられている。代表的なのは琵琶湖の北端に近い近江海津の「魚治(うおじ)」。オーソドックスな飯漬けの他、飯漬けを酒粕に漬け込んだ甘露漬けがある。

大陸から水稲と同時に伝わったと言われる熟れ寿司(なれずし)は、乳酸菌で米に味が付いたものだが、時間を省き、酢で味付けしたのが今の寿司の始まり。そしてその酢飯で東西の味が異なる。
最も大きな差異は甘みである。近畿地方を筆頭に、おおむね西の酢飯は甘みが強い。酢飯に砂糖を多く加えるからだが、そのせいもあって粘着度が高まり、結果、寿司の形にも変化が生じたのである。

近畿で盛んな棒寿司や箱寿司、押し寿司などは、米粒同士がくっつかないと成立しない。砂糖を使わず酢だけで作った酢飯だと崩れやすい。とかくネタの出所ばかりが口の端に上りがちだが、鮨の半分はシャリの力。と書いてしまい反省しきり。鮨屋符丁を客が真似るのは野暮というもの。

「シャリだの、ガリだの、ムラサキ、アガリなどと、通ぶる客に真の鮨好きはいないね」

三つ星を取り続けている名人の言葉だ。それにしても人はなぜ、鮨屋のカウンター席に座ると、殊更に気張るのだろうか。粋がって見せるこことの不思議。

「大間(おおま)だろう? だと思ったよ。何キロ? 意外に小さいんだね。で、何日くらい? もう少し寝かせてもいいんじゃない? 旨みが行き渡ると思うよ」

河岸でのやり取りならいざ知らず。一枚板のカウンターを挟んで、主人を前にし、他の客もいる中で語るには、ふさわしくない言葉だ。鮨屋に限らず、近頃は、客が店との結界を越えてしまっているのではないか。

「大間で揚がった鮪(まぐろ)は旨いが、必ずしもベストではない。季節によって、港によって、それぞれ異なる旨さを持つのが鮪の醍醐味。だがそれを瞬時に味わい分けるのは容易いことではない」
長年にわたって鮪を見続けてきた仲買人の言葉だ。

「食語の心」と題して、これまで繰り返し書いてきたが、食べる側の心得として、味わう主観だけに徹した方がいい。料理を作る側の領分を侵さないことで「食語」はうんと美しく、そして愉しくなる。

さて江戸前鮨。江戸前と言うくらいだから、当然ながら本場は江戸。銀座を筆頭に、都内には名だたる鮨屋が軒を並べ、伝統を守りながらも進化を続けている。そんな鮨屋を訪ね歩くのもいいが、僕のお奨めは地方の江戸前鮨。

我が京都を始め、かつては地方の江戸前鮨と言うと、なぜかネタが大きいのを特徴としていて、江戸前の素材を使うわけでもなく、ましてや江戸前の技法とは無縁だった。しかし近年になって、地方においても江戸前の仕事を施した、真っ当な鮨屋が暖簾をあげ、鮨好き、旅好きの舌を喜ばせている。

例えば博多。エネルギッシュな街に、何軒もの鮨屋が鎬(しのぎ)を削っている。地方の鮨屋が愉しいのは、江戸前の技法をベースにしながらも、ネタを含めて地方色をも加えているところだ。JR博多駅からほど近い「安吉」などがその代表。

おまかせで頼むと、ひと口サイズの酒肴が次々と繰り出され、それが十皿ほど続くと握りに切り替わる。九州ならではの焼酎でもいいが、あえてシャンパーニュと合わせる。夏ならシンコに蒸しアワビ。春先には煮ハマ。小ぶりの握りを摘んでいると、ふと、ここは西麻布だったかと錯覚してしまう。

あるいは岡山の郊外に店を構える「ひさ田」。十年ほども前に初めて訪ねたときは、狸に化かされたかと思うほどの辺境の地に立つ鮨屋。ここもまた、江戸前の技法を守りながらも、常に革新的な進化を遂げ、カウンターを挟んで主人と向き合う時間は、東京では得難い伸びやかな空気に包まれる。

食を目当てにして旅をすることはほとんどないが、鮨だけは別。いい鮨屋があると聞けば、すぐに旅支度をする。今夏訪れた宮崎の「一心鮨光洋(いっしんずしこうよう)」などは、この店のためだけに飛行機に乗ったくらい。だがその甲斐あって、東京では決して味わえない、広い屋敷の中のカウンターで、宮崎らしい江戸前鮨に、何度も舌鼓を打ち、明日地球が滅亡してもいいと思った。

鮨を食べることは愉しい。鮨を語ることも愉しい。通ぶる必要などない。客は美味いしいとだけ伝え、後は主人の言葉に耳を傾ければいい。それは鮨屋のみならず、例えば京都でも同じ。次はその京都の話をしよう。

柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。

※『Nile’s NILE』2013年11月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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