食べることにおいて、日本人ほど〈旬〉を大切にする国民は他に居ないだろうと思う。
〈旬〉。言うまでもなく〈出盛り期〉を言い、最も美味しく食べられる時期とも言い換えられる。さらには価格も安定し、相応の値段という利点もある。
年中食べられる食材であっても、季節によって呼び名が変わったりするのも日本ならではのこと。
例えば〈初鰹〉。春先。黒潮に乗って、太平洋沿岸を北上して来た鰹(かつお)をさっぱりと食べる。季語にもなるほどに知られ、江戸っ子などはいち早く食べて、粋を競う。これが秋口になると〈戻り鰹〉と呼ばれ、〈初鰹〉に比べて、しっかりと太り、脂も乗るので、旨みが濃くなる。どちらも鰹にとっては〈旬〉だが、その味わいは大きく異なる。
あるいは魚の王者とも呼ばれる鯛(たい)は、春には〈桜鯛〉、秋になれば〈紅葉鯛〉となり、季節の色を映し出す。
あるいは草冠に旬と書く筍(たけのこ)も〈旬〉モノの典型だろう。今では水煮にの袋詰めが年中売られているが、元はと言えば春の産物。立春も過ぎ、そろそろ雛飾りを、という季節にこそふさわしいのだが、近頃はとんでもないフライングが横行している。
正月三が日が明け、京都のとある割烹で、初春懐石と銘打った料理を食べていて、若竹が出てきた。九州のどこだかで採れた筍だと、主人は鼻を高くしたが、僕は鼻白んだ。
旬に先駆けてを〈走り〉と言い、それはそれで珍重されなくもないが、いくら何でも早すぎる。二十四孝の孟宗(もうそう)じゃあるまいし、真冬の筍は親孝行話の題材にしかなるまい。仮にそれがどんなに旨かったとしても、だ。季節とはそうしたものなのに、近頃の料理人は競って〈走り〉を出したがる。それも大幅な〈走り〉を自慢したがるので、時にとんでもない取り合わせが出る。
別の祗園の割烹。雛の節句の頃に出た焼き物。筍を枕に立派な鮎(あゆ)の塩焼きが2匹横たわり、傍らには漬け焼きにされた鱧(はも)が並ぶ。筍、鮎、そして鱧。本来の旬から言えば、決して居並ぶはずがないのだが。
俳句でもこれを〈季違い〉といって忌み嫌う。季節を尊ぶ日本料理にあるまじき取り合わせ。料理人の見識が問われる。
何故こういうことが起きるかと言えば、これを喜ぶ客がいるからで、近年、客と料理人の関係がいびつになってしまった弊害である。
かつて、料理人と客の間には結界とも呼ぶべき垣根があった。そのため、間に入って媒(なかだち)をする、文字通り仲居の存在があったのだが、今や客と料理人の間に垣根は存在せず、じかにキャッチボールをするようになり、割烹などは劇場化するに至った。
そのこと自体は決して悪いことではなく、料理人と丁々発止のやり取りを交わしながら、旨いものを食べることができれば、客としてはありがたい限り。だが、以前は裏舞台にいた料理人がいきなり表舞台に出てきて、舞い上がってしまうケースも多い。
客を差し置き、自らが主役を買って出ると、大抵行き過ぎたパフォーマンスに終始することになり、その端的な例が、過剰な〈走り〉。舞台にたとえるなら、過ぎたウケ狙い。
五十有余年の料理人歴を誇る、割烹の主人いわく「最近の客は楽だ。何を出しても美味しいを連発し、記念撮影してくれる」
過ぎた料理人賛美は、こうして〈旬〉をも狂わせることになる。プロもアマも、自らのブログで店を料理を、料理人を絶賛することに終始する。それを読んで料理人はさらに発奮する。
深い味わいなどはさて置き、目立つのはいち早く旬を先取りすること。かくして大幅なフライングが横行する羽目になる。
一事が万事。客と料理人が互いに媚を売り続けた結果、同じような店がはびこる。店の名には〈さん〉を付け、料理人を〈ちゃん〉付けで呼ぶ。敬意も謙譲の念もなく、まるで友達同士のような関係を築き、緊張感を失い、いつしか割烹のカウンターは、驚かせ、笑い合うだけの場になってしまった。バラエティー番組のお笑い芸人が、常に新ネタを求められるのと同じく、料理人たちもまた、常に客を驚かせるネタ探しに躍起になる。その結果が〈フライング旬〉。
そもそも〈走り〉ですら日本人の感覚にはそぐわない。物の哀れを尊ぶ民族には〈名残〉こそがふさわしい。
例えば春の山菜。長い冬を越し、ようやく春が芽吹き、人の心を温めてくれた山菜が消えゆくのを惜しんで、コゴミやウルイを舌に載せて目を細める。そんな哀惜の念などまるで解せない客は、新奇で派手な趣向にしか反応しない。
食材としての野菜が、近年注目を集めるようになったことは、喜ばしい限りだが、それとて〈旬〉にはさほど言及されない。耳目を集めるのは野菜の作り手や、畑に入り込んでナマ野菜をかじる料理人のみ。
海の幸以上に〈旬〉を失っているのは野菜や果実。本来は夏野菜だったはずのトマトやキュウリ、ナスは年中使われ、秋や真冬でもイチゴを使ったデザートがメニューに上る。
一度崩れた〈旬〉は決して元に戻らない。客と料理人の関係が今のまま続けば、〈旬〉が死語となる日もそう遠くないだろう。
客にせよ、料理人にしても〈食〉と対峙するにあたって、限られた自然を受け入れ、その範疇で美味しく食べる愉しみを、今一度見直すべきときに来ている。
その地とは無縁の希少な食材を求めたり、季節外れの食をして美食と誇るような〈驕り〉は、必ずや自然のしっぺ返しを食うに違いない。今そこにある〈旬〉を素直に味わうことこそが、美食の本来の意である。
つまり、美食の〈美〉は珍奇や新奇ではなく、今を盛りとする、ありふれたものにこそ潜んでいる。
美食、あるいはグルメという言葉がひとり歩きを始めて久しい。しかしその真意はなかなか見えてこない。次回はそのことを少し考えてみたい。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2013年8月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています