美味しいものを食べることは文句なく愉(たの)しい。そしてそれを語ることも、書くことも然り。あれが旨(うま)い、これはこんな味だと書き綴り、人に伝えることは、食の愉しみを倍加させる。口コミグルメサイトの膨大な書き込みがそれを証明している。
それはいいのだが、その言葉遣いが、僕には些(いささ)か気になる。
アマチュアのグルメブロガーさんから、プロのライターまで、「食」を語るのに、最近は共通して妙な言葉遣いをされる。独特の「食語」があるのだ。その代表が「食す」。
普通に食べているのではなく、こだわって食べていることを強調したいのだろうが、僕はこれに強い違和感を覚える。なぜなら「食べる」という言葉にこそ、日本の食文化の根幹があるからだ。
「食べる」は「賜る」から派生した言葉。「賜る」、即ち、天から授かったものという意。日本の食材はすべて「賜物(たまもの)」という観念があるから、賜ったものを口にすることを「食べる」というのである。
たとえ人の手によって育てられ、収穫された野菜であっても、あるいは命を賭して釣り上げた魚でも、更には我が子同然のようにして育て上げた牧畜だろうと、それらは総て天から賜ったものだという心根を、古来、日本人は持ち続けている。
賜ったものを有難く口にすることを「食べる」と言う。それこそが日本の食文化の根幹を成していて、それを示す、もう一つの言葉が「御食国(みけつくに)」と言える。
古代から平安の頃まで、日本には〈御食国〉という呼称があり、それは朝廷や皇室に海産物を中心とした食材を献上していた国を指す。淡路、志摩、若狭の三つを指すのが一般的とされているが、他にもまだあったのかもしれない。
万葉集にも登場するこの〈御食国〉なる制度は、日本独特のものといってもいい。穀類を含まない食材、言い換えれば美食の献上である。
雑魚、海藻、貝類など地域の特産を貢ぐ。それらは一旦神饌(しんせん)として神に供えられ、後に多くは直会(なおらい)という形で人々の口に入ることとなる。
ここで重要なのは神様経由であること。権力にものをいわせて、強引に取り立てて美食を口にしたのではない。あくまで本来の目的は神様に食べていただくことにある。しかる後に、お下がりをいただくという、謙虚なところが日本の日本たる所以(ゆえん)。神様に供えるのなら仕方がないと、多くの民も納得したのだろう。
天から授かった食物を神様に献上し、その後、高貴な方から庶民へと順に下り、お下がりを「いただく」。なればこそ「食べる」のである。
もう一つ。僕が気になる「食語」は、この「いただく」。
――ご主人が自らさばいてくださった蟹をいただく。その有難さをじっくりと……(後略)――
とある雑誌に掲載された記事。ここに書かれた「いただく」は、天や神ではなく、店の主人に対しての言葉である。記事の後段に、――一杯の蟹が、ご主人の手に掛かると至福の美味に変わる――とあるから、この記事の書き手は店の主人から「いただく」のである。
「食す」「いただく」という言葉から見えてくるのは料理人崇拝主義とでも呼ぶべき、食に対する今の風潮である。それはブログなどで使われる、料理人に対する過剰な敬語にも表れている。
どこそこで修業なさって 、めでたく独立を果たされ 、開店された。まだ三十過ぎの若い料理人を崇め奉る。
そしてその店へ行くのに「訪問」という言葉を使うのも特徴的だ。個人の居宅ではなく、店へ食べに行くことをなぜ「訪問」と言うのか。それは食事そのものよりも、料理人に会うことを、第一義としているからだろうと思う。
――久々の訪問。まずは店主様の○○○さんに本日のオススメを伺う――
雑誌の記事ならともかくも、普通の客にとって、何故料理人の名前が必要なのか。店との親しさを強調したい傾向は更に深まり、若い衆を君付けや、チャン付けで呼ぶ。美味しいものを食べに行くより、店と親しくなりたいがために通い詰めているとしか思えない。
そしてその料理人たちを手放しで絶賛するのも特徴的。高みに持ち上げることで、その料理人と親しい自分も高い位置に居ると思いたいのだろう。時に料理人が客を見下すような物言いをしても、神妙な顔付きでそれを受け入れる。
多くの客たちに取って、今や食の最大の関心は、食べることそのものより、店や料理人に向けられている。親しくなって、それを自慢気にブログなり口コミサイトに書きたい。これもまた最近の歪ゆがんだ傾向。
では、その料理人たちの関心はどこに向いているかと言えば、多くが食材の送り手である。
カリスマ漁師、カリスマ農家という存在も近頃では珍しいことではない。そしてその食材の担い手に、料理人たちは全幅の信頼を寄せる。
客は料理人を崇め、料理人は食材の作り手を奉る。ならばその作り手は天や神を尊崇するかと言えば、どうもそうではないらしい。
あるテレビ番組に出演していたカリスマ農家。レストランで料理をひと口食べるなり、厨房に入り込んでシェフを怒鳴りつけた。自分が作った野菜の旨みを台無しにする料理だ、と。シェフはひと言も反論できずにいた。
もちろん料理人の努力や、農家の労苦を否としているものではない。その前に、まずは天地の恵みであることに思いをいたしてもらいたい。
食材の作り手も、料理人も、我が我が、ではなく、自然の力があって初めて、料理が出来上がることを改めて自覚して欲しい。そのためにも、「食す」ではなく「食べる」という言葉を使いたいのだ。
食を愉しく語り、書き綴るに忘れてならないのは、誰が、どんな食材を、どういう調理法で作ったか、ではなく、美味しく食べられることを、天に感謝する気持ちなのである。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2013年5月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています