時が経つのは早いもので、「食語の心」と題したコラムを本誌で始めてから、今回で100話目となる。
本誌は月刊誌なので、おおよそ8年にわたって連載を続けてきて、食に関して、何かが変わったかと言えば、大きく変わったとも、何も変わっていないとも言える。
長く続くグルメブームにあって、食を作る人よりも、食を取り巻く人や食を語る人たちが、危うい状況を作りだしていることに、大きな危機感を持ったのが、このコラムを書くきっかけとなった。
ときに食のあり様を憂(うれ)え、おこがましいことを承知で警鐘を鳴らしてきた8年間を振り返り、食の現在、そして未来を見据えてみたい。
コロナ禍でいくらか失速したが、この8年間のグルメブームはずっと右肩上がりが続いている。
ぼくが住まう京都などはその典型で、毎日のように新しい店がオープンし、ほぼ例外なく繁盛している。もちろん、そのことによって街が活性化し、美味しいものを食べられる店が増えていくのはあしきことではない。
ではあるが、その実態と評価が著しく乖離しているのは、決して好ましいことではない。そのことを8年間にわたって、ずっと書き続けてきたのだが、改善されるどころか、ひどくなる一方なのは、誠にもって残念なことである。
長く書き続けてきたが、食の世界は異様と言ってもいいほど、他の分野と大きな違いがある。
文学や音楽、映画、舞台、スポーツ、芸術などの分野でも、それぞれを語る人たちがいて、評論という形が成立している。
と同じように、食もプロ、アマ織り交ぜて多くがブログやSNSを通じて語るのだが、ほぼ全てが称賛一辺倒となっている点で、他の文化と大きく異なっている。
例えば京都で100軒の新しい店ができれば、それらのほとんど全てが、「これまでになかった素晴らしい店」だと評価されるのだが、他の分野でそんなことはあり得ない。
文学の世界でもたくさんの新人作家が誕生するが、そのうち高い評価を得られるのは、ごく少数であって、多くは鳴かず飛ばずというのが現状なのである。
映画や音楽、舞台でも同様だろうと思う。
プロの評論家が絶賛し、連日満席が続くような映画や舞台は、一年に数えるほどしかないだろう。
それに比べて、いかに食の世界における評論が異常かが分かる。
もちろん誹謗中傷は論外だが、飲食店だけが全て絶賛されるのは、いびつとしか言いようがない。
新しくオープンする店の料理人が全て、「新星」で、「史上最高」の料理が出てくるようだが、それをアスリートにたとえるなら、連日記録を更新する選手ばかり、ということになる。以前ほどではないが、それでも評判を聞いて新しい店に出向くことがあるが、もう一度足を運びたくなるのは、そのうちの2割にも満たない。
普通に考えれば、各人が満足のいく店は5割ほどのはず。それがなぜ10割近くになるのか。
それは店に取り入りたいからなのである。おもねる言葉を連ねることで、店に気に入られ、少しでも居心地を良くしたい。それゆえの美辞麗句なのだろうと思う。
そこが他の分野との違いだ。飲食店はかならず店側の人間と対面し、見知った関係になるが、作家や俳優、歌手と顔見知りになることは稀(まれ)なので、言いたいことを言える。だが、飲食店だとそうはいかない。批判的なことやネガティブなことを書けば、当然ながら次回の居心地が悪くなる。
これらは多くアマチュアの話だが、プロのグルメライターとなると、また別の理由があって、それが飯のタネ、だからだ。
飲食業界が盛り上がることを否定しているわけではないが、過大評価されることで、店側が日々の研鑽(けんさん)をおろそかにするのではないか、と危惧しているのだ。
それが杞憂に終わればいいのだが、残念ながら、店と客のいびつな関係は、コロナ禍でも、収束状態でも変わることなく続いている。
店と客が真っ当な関係を築くためには、互いが対等であることを再認識する必要がある。力関係で言えば、今は飲食店側が強く、客が弱い傾向にあるのだが、それをフラットにするために、まずは正しい「食語」を使うようにせねばならない。
客が神さまではないように、料理人もまた神さまではない。
連載100回を迎えて、今その思いを新たにしている。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。大阪歯科大学卒業後、京都市北区に歯科医院を開業。生粋の京都人であり、かつ食通でもあることから京都案内本を多数執筆。テレビ番組や雑誌の京都特集でも監修を務める。小説『鴨川食堂』(小学館)はNHKでテレビドラマ化され続編も好評刊行中。『グルメぎらい』(光文社新書)、『京都の路地裏』(幻冬舎新書)、『憂食論 歪みきった日本の食を斬る!』(講談社)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2021年12月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています