コロナ禍によって、外食に対する考えが変わるのでは、と淡い期待を抱いたが、残念ながら元の木阿弥(もくあみ)のようだ。
というより、以前よりもいびつになった気さえする。
移動の自粛などどこ吹く風とばかり、あいも変わらず遠方の名店行脚を続けるひとも少なくなければ、今ならいつもより行列も短いとばかりに、人気店に並ぶひとも多い。
そこまでして食べたいのかと思えば、やはりお目当ては食べることより見せることにあるようだ。
映えという言葉がふつうに使われるようになったのは、そう古いことではないのだが、いつの間にかそれは褒め言葉になり、寺社の庭園までもが、映える庭、などと言われるようになってしまった。
以前にもこのコラムでローストビーフ丼を例に挙げ、食べることより写真に撮ることを優先する風潮を嘆いたが、その傾向はコロナ禍でも衰えるどころか、ますます大きくなっている。
山のように積まれたローストビーフを、見せつけるようにアップで写真を撮ったら、少し箸をつけるだけで、ほとんど食べ残して店を出ていく。長い列に並んだのは、食べるためではなく撮るためだったという話は以前にも書いたことがある。
そしてその写真は思い出などのためではなく、SNSに投稿して自慢をしたいがためなのだと聞いて、やるせない気持ちになってしまう。
なぜこんな風潮がはびこるかと言えば、再三再四にわたって書いているが、プロアマ織り交ぜてグルメと呼ばれるひとたちが、映え狙いの写真を披歴(ひれき)するからである。
誰かが思い付きで撮った料理写真がいつしか流行になる。その顕著な例がトンカツである。
いつのころからだろう。SNSなどでトンカツの写真を見ると、決まって真ん中あたりのひと切れが、切り口を見せつけるように、寝かされている。
どうにも不自然な眺めなのだが、これが食通の撮り方だとでも言わんばかりに、広くはびこってきた。
当たり前のことだが、ふつうの料理人がこんな盛り付けをするはずがなく、客の側で写真を撮るときに、こんな仕掛けをするのだろう。
こんな写真を撮る理由はただひとつ。火の入り加減をたしかめるためだ。
ピンクっぽいレア加減を是とするグルメたちは、「火入れ」という言葉を好んで使い、それをビジュアルで見せるために、断面を写真に収めるのである。
結果、素人の客までもがそれをまねて、「絶妙の火入れ」などというコメントを付けて、トンカツの切り口をあらわにした写真を公開するのだ。
こうしたプロアマ入り乱れてのグルメごっこは、料理の作り手を嘆かせるに至った。
「そりゃあいい気はしませんよ。きちんと盛り付けたのに、勝手にひっくり返して写真を撮られるんですから。滑稽を通り越して、醜悪だと思うんですけどね。じゃあすし屋でもやってみろ、って言いたくなりますよ。一貫だけ寝かしたり、すしネタ引っぺがして、シャリを見せて写真撮ったらどうだ、って。きっとすし屋のオヤジにどやされますよ」
とある洋食屋の主人はそう嘆く。
いっぽうで、進んでこの流れに乗っかろうとするトンカツ屋もある。
最初から盛り付けるときに、ひと切れだけ寝かして切り口を見せるのだ。客にこびる料理人もまた、外食をいびつなものにしている。
そもそも「火入れ」などという言葉はプロの料理人が使うものであって、素人が口にするものではない。
年間外食回数何百回だとか、もっぱら外で食べていて、自分で調理することなど滅多にない者が、「火入れ」の加減など理解できるわけがない。
これも繰り返し書いていることだが、食べての感想ならともかく、料理の素人が調理のプロセスにまで言及して、食を語るから「食語」が危うくなるのである。
どんなに外食経験が豊富であっても、さまざまな調理体験を重ねないと、調理の細かなテクニックなど分かろうはずがない。
アスリートの世界を見れば自明のことであって、選手経験のない者が、野球の技術論を語るなど聞いたことがないし、他のどんな競技でもおなじだ。
食べる側は、あくまで食べての感想に徹する。それが「食語」の要諦(ようてい)である。そうすれば、トンカツのひと切れを横にするなどという、馬鹿げた写真はなくなるに違いない。
柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。大阪歯科大学卒業後、京都市北区に歯科医院を開業。生粋の京都人であり、かつ食通でもあることから京都案内本を多数執筆。テレビ番組や雑誌の京都特集でも監修を務める。小説『鴨川食堂』(小学館)はNHKでテレビドラマ化され続編も好評刊行中。『グルメぎらい』(光文社新書)、『京都の路地裏』(幻冬舎新書)、『憂食論 歪みきった日本の食を斬る!』(講談社)など著書多数。
※『Nile’s NILE』2022年6月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています