数年前『フラット化する世界』というタイトルの本がはやったことがある。「ITの普及によって世界はどこにでもアクセスが可能になった。その意味 でフラット(=平たく)になったのであり、今や全ての人にチャンスが巡ってきている」といった趣旨の本だ。
事実、ITそしてデジタル化によって支えられた金融資本主義は全世界をのみ込み、「フラット化」させた。
今や、世界中のどこでもアクセスができるように思えなくもないし、秒速で取引を繰り返すことで有り余る富を手にした者たちが世界中にたくさんいる。
しかし私は、このタイトルを最初に目にした時から、どうしても素直に肯(がえん)ずることができなかった。「フラット化」がグローバル化の本質だという時、相対する者と私自身もまたフラットな間柄に立っていることを暗黙の了解にしている。しかし、現実には全くそうではないのである。私と相対する彼・彼女との間には「違い」があるが、「フラット化する世界」は究極においてそうした違いを認めることはないし、もっといえばそうした違いを維持するのは誤りだ、とまでいうのである。そしてフラット化を促す「英語・デジタル化・金融」が絶対視され、これに通暁することこそ、成功するカギだと大声で語られるようになるのだ。
フラット化」なる現象の中で、世界は“偏在・局在する何か”を認めなくなっている。この傾向の起源をたどると、それは19世紀の産業革命から始まっているのである。ハーバート・ファイスの名著『帝国主義外交と国際金融』(筑摩書房)の冒頭には、概要こんな文章があったと記憶している。
「欧州から始まったうねりがやがて世界中へと及び、それが各地を孕(はら)ませては増殖し、さらに前進していった」
産業革命の本質は動力源の劇的な発展だ。それはまず、欧州の人々のモビリティーを一気に拡大させ、世界中どこにでも行こうと思えば行ける状況を創り出した。しかも19世紀後半になると、帰ったのだ。この繰り返しで資本主義は、拡大の一途をたどってきた。現代の「金融資本主義」もその延長線上に位置している。
その意味で「近代(Modernism)」の本質はテクノロジーであり、かつその無限の可能性に対する信奉があるのだ。「人工知能(AI)全能論」あるいは「シンギュラリティーを巡る議論」はその現代版である。
しかし、である。人工知能(AI)が全能に近づけば近づくほど、疎外される者が出てくる。かつてマルクス主義は、労働における疎外(Entfremdung)を語ったが、「働くことに懸命なあまり、自分が自分であることをも忘れてしまうような状態」といった意味での疎外などというレベルでは、もうなくなっているのが現状なのだ。人工知能(AI)によって現実に人々は、職を奪われている。現状は「疎外」というよりも「排除」といったほうがいい。
だがこの瞬間に、確かに私という現実存在は“居る=在る”のである。そのことに全く疑いはないのだ。ただし、この確信を持つことができるのは、私だけである以上、この思いは局在的なのだ。
「フラット」ではない。だがあくまでも、確かな事実である。この矛盾をどうとらえるべきなのか。「局在」とは、結局のところ時代遅れな思い込みであり、無意味・無価値なのだろうか。
私は、私たち全員がこの問いかけに真正面から答えなければならない瞬間が、間もなく到来すると感じる。これまで繰り返しトライされてきたものの、成し遂げられなかった「近代の超克」を現代に生きる私たちが実現できるのか否か。――この問いに対するファイナルアンサーを、私たち自身が出さなければならなくなるのはもう間もなくだ。
原田武夫(はらだ・たけお)
元外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。
https://haradatakeo.com/