今年5月1日、いよいよ新天皇陛下が即位される。「平成」は31年ほど続いて終わりを告げた。この「平成」という時代はその名とは大きく異なり、実に激動の31年間であった。
もっともそうであるからこそ、考えなくてはならないことがあるのだ。それは「平成」であれ、「新元号」であれ、そもそも我が国における元号とは一体どのような意味を持っているのかということなのである。
「時に区切りをつけること」は一見すると非常に象徴的な行為のように思えなくもない。だが、考えてもみてもらいたい、そもそも「時」に起点が設定されなければ、「時」を計ることができないのである。その結果、金融・経済システムそのものが全く成り立たなくなることに、早く気づかなければならないのだ。なぜか。
時の「起点」が決められており、さらにはそこからどれだけの量の「時」が一つの単位であるのかが決められているからこそ、「金利計算」が可能になってくる。利子を計算することができるのは、「起点」が決まっているからであって、それとのある種の距離感をもってどれだけの「時の単位」が費やされたのかが明らかとされ、そこに一定の割合での掛け算がなされ ることによってなのである。
そうである以上、金融・経済システムが支えている全ての社会システムがそもそも「時」によって支えられているというべきことが分かってくるのだ。「時を区切ること」はその意味で絶対的な権力の行使なのである。だから、古今東西、最高権力者は最終的に「時」を刻み込み、そこに自らの意思を打刻しようと躍起になってきたというわけなのだ。
「西暦」を管理しているのは、バチカン市国を筆頭としたカトリックである。そしてまた、その延長線上にありながらも、「空間」をも掛け合わせることで「時の起点」をグリニッジ標準時(GMT)として設定したのが、イギリスなのだ。そう、だからこそ、イギリスという国家を支え、同時にその実質でもあるロンドン・シティー(City ofLondon)という金融ギルドは、イギリスに存在しているというわけなのである。「時」という鉄火場を創り上げた張本人が最も得をする仕組みが、そこでは金融システムとして繰り広げられているのだ。
このこととの比較で、本当のところ「新元号」は語られなければならないのである。「元号」という形で時を刻み込むこと。それこそが我が国における「天皇」が持っている最高権力だけが振るうことのできる、最高位の権限の行使なのだ。
そしてだからこそ、天皇が代替わりをする度に「元号」を変えてきたのである。こうした形で象徴性を超えて、権力の実質的な行為としての「元号システム」を語る者が我が国を含め、世界ではあまりにも少ないように思うのは私だけであろうか。
もっとも今回の「新元号」を巡ってはさらにもう一つ、考えなければならない重大事があるのだ。上皇となる天皇陛下は、自らの意思で「新元号」が打刻されるように動かれた。
そのことは一体何の意味を持っていると考えるべきなのか。いや、もっといえば今回、あまりにも「政治優位」のままに決められたと聞く、「新元号」の制定というプロセスそのものが、それ以前の「元号制定」と本当に同じ意味合いを持つと言い切ることができるのであろうか。この点について疑問なしとはしないのである。
「 やがて全てが明らかになるのは11月の大嘗祭においてだ。ぜひ注視しておいてほしい」
明治以来の皇室を熟知する家系に属するとある御仁が、そんなふうに教えてくれた。果たしてその時、何が起きるのか。新しい「時の支配者」の姿を感じ取りつつ、“その時”を読者と共に静かに待つことにしたい。
原田武夫 はらだ・たけお
元キャリア外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。
※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し再掲載しています