16世紀から交通の要衝となっていたこの撫養港を機能的にしたのは、徳島藩の藩祖である蜂須賀家政(はちすか いえまさ)だ。家政は、阿波へ入国したばかりの1585(天正13)年に、淡路の福良から鳴門へ渡海する船頭10人を選んで渡海の役につかせ、1591(天正19)年には彼らの家を岡崎に移転。阿波の入り口である撫養に“よき足”を確保したのである。
明治に入り御番所が廃止された後も、そのほとんどは船問屋に所属し、渡海業に携わって、撫養港の発展を支え続けた。その後も、さまざまな海運業の汽船や西洋型帆船が入港し、盛況を呈した。
もう一つ、家政が整備したのが阿波の五街道。その一つの撫養街道は、撫養港から吉野川北岸を西走して、池田町で五街道の一つ伊予街道に交わる67.3kmの道。江戸時代中期以降、四国八十八カ所を巡礼するお遍路さんは、まず撫養港に上陸し、撫養街道を歩いて第1番札所の霊山寺に向かった。そのため撫養街道は、“歩き遍路の道”として、また、阿波の名産である藍や葉たばこ、塩を撫養港まで運ぶ“商の道”として、人や物が激しく往来した。
今は、静かでゆったりとしたたたずまいの撫養の港や旧街道、そして小鳴門海峡。四国の玄関口、交通の要衝として在り続けた鳴門の、土地に刻まれた記憶をたどり、キャデラックCT6を走らせた。
海のそばのドライブはいいものだ。一番いいのは、終点がないからかもしれない。山道はそのうち山の反対側に出てしまう。それに対して、周囲の景色が変わっていくのを眺めながら、クルマをどこまでも走らせていく感覚こそ、醍醐味だと思う。