松山英樹の「この10年」

「運命」というものは、たぶん存在するのだろうと思うのだが、往々にしてその正体は現在進行形では見破ることができず、後々になって振り返ったとき、あれは運命だったのだとうなずける。松山英樹が今年のマスターズを制覇するまでの日々をたどれば、なるほど、あれは運命だったのだと思えてくる。

Text ゴルフジャーナリスト 舩越園子

「運命」というものは、たぶん存在するのだろうと思うのだが、往々にしてその正体は現在進行形では見破ることができず、後々になって振り返ったとき、あれは運命だったのだとうなずける。松山英樹が今年のマスターズを制覇するまでの日々をたどれば、なるほど、あれは運命だったのだと思えてくる。

日本人として初のメジャー制覇を遂げた松山英樹
日本人として初のメジャー制覇を遂げた松山英樹。2011年のローアマチュアを獲得以来、10回目の挑戦で悲願のグリーンジャケットを手にした。史上初の日本人マスターズ・チャンピオンは、多くの人々に勇気と感動を与えた。写真:AP/アフロ

2021年4月11日、松山英樹が日本人初、アジア人初のマスターズ・チャンピオンに輝き、日本中を歓喜させた。そこへ至るまでの彼のこの10年を振り返ったとき、その途上で彼が遭遇した出来事のすべてが、この日のためにあったのだと、今、そう思わずにはいられない。

10年前。11年のマスターズは松山が初出場した大会だった。当時の彼は東北福祉大学に籍を置く19歳のアマチュア選手。前年のアジアパシフィックアマチュア選手権(以下アジア・アマ)で優勝し、その資格でオーガスタへの切符を得たのだが、アジア・アマ優勝者に翌年のマスターズ出場権が与えられることは、松山も同大学ゴルフ部の阿部靖彦監督も最初は知らなかったそうだ。

「ヒデキが『監督、勝ったらマスターズに行けるらしいですよ』と興奮しながら言いに来たんです。私もそれは知らなかった。あのころは私もヒデキも知らないことだらけ。何から何まで手探りでした」

いざ、そのアジア・アマを制し、マスターズ初出場を目前に控えていた11年3月に東日本大震災が起こった。母校のある仙台や東北一帯が深刻な状況にあるときに「自分はゴルフの大会に出ていいのだろうか?」と迷っていたら東北の人々が行ってこいと背中を押してくれた。

初めてオーガスタ・ナショナルに足を踏み入れた松山は見事27位タイでローアマチュアに輝き、日本人として初めてマスターズの表彰式に臨んだ。「実を言えば、私もヒデキもローアマという言葉だけは知っていましたけど、表彰式に出ることは全然知らなくて、慌てました」と阿部監督。グリーンジャケットを羽織ったシャール・シュワーツェルと並んで表彰式に臨んだ松山は、英語のスピーチの代わりに深々とお辞儀をした。その様子を前年覇者のフィル・ミケルソンが身を乗り出して見つめながら大きな拍手を送った。

「なんて礼儀正しく素敵な姿なんだ」

そう賞賛されたアジアの青年が、10年後の今年、優勝者として表彰式に臨み、グリーンジャケットを羽織った。オーガスタへ続く道であることを知らずにエントリーしたアジア・アマの優勝から彼のマスターズへの挑戦が始まったこと、マスターズ初出場の直前に大震災という大きな出来事が起こり、被災地の人々の複雑な思いを胸に抱いてオーガスタの土を踏んだこと、なにもかもが運命だったのではないか。今、そう思わずにはいられない。

次々に遭遇した山と谷

12年4月。アジア・アマを連覇して再び挑んだ2度目のマスターズは悔し涙に終わった。上位フィニッシュが望めた最終日、彼は1番で短いパーパットを外し、「あれっ?」と感じた小さな違和感が、その後の彼のゴルフを狂わせた。80をたたく大崩れで54位タイに沈んだ松山は、「自分が不甲斐ない」と大粒の涙をボロボロこぼして泣いた。

13年にプロ転向。米ツアーのメンバー資格獲得を目指して挑み始めた松山に、周囲の選手たちはこぞって厳しい視線を向けた。プレーペースやルール上の対処の仕方、マナーやエチケットにいたるまで、松山は次々に批判にさらされた。だが、14年メモリアル・トーナメントで初優勝を挙げると、外野の喧騒はあっさり収まった。しかし、15年は勝てない1年を経験。「シード落ちしたら下部ツアーに行ってでもやります」と覚悟を決め、アイアンで構築するゴルフを目指して黙々と鍛錬する日々を過ごした。

16年フェニックス・オープンでは、アメリカの国民的人気を誇るリッキー・ファウラーとのプレーオフにもつれ込み、大観衆すべてを敵に回す完全アウェーの中、松山は「逆にここで勝ってやる」という気概を抱き、米ツアー2勝目を挙げた。批判の目も、四面楚歌も、すべて跳ね返し、極限状態の中で挙げた2度の勝利は、松山の心臓を格段に強化したのだと思う。16年は日本でも2勝を挙げ、上海では世界選手権のHSBCチャンピオンズ、バハマでは「タイガー・ウッズの大会」であるヒーロー・ワールド・チャレンジでも勝利した。

17年にはフェニックス・オープン2連覇を成し遂げ、その夏、ブリヂストン招待を制して二つ目の世界選手権タイトルを掌中に収めた。その勢いのまま臨んだ翌週の全米プロではメジャー初優勝ににじり寄った。だが、折り返し後の11番でフェアウェーから打ってグリーンを外した第2打がすべてを狂わせた。

「難しくない状況からミスしたことが、きつかった。バーディーチャンスからボギーにしたことが、すごく不甲斐ない……」

1打の小さなミスから崩れ落ち、優勝をジャスティン・トーマスに差し出した松山は、大勢の日本メディアの視線にさらされていると知りながら、思わずしゃがみ込み、背中を震わせながら悔し泣きした。しかし、もしかしたら、あの悔し涙も、今年のマスターズ4日間をしっかり乗り越えるための試練だったのではないかと、今はそう思える。

運命を味方に変えた日々

17年の全米プロで悔し泣きして以来、松山は勝利から遠ざかった。試合会場の練習場で日が暮れるまで球を打ち、しかし翌日は「練習でできたことが試合ではできない」と肩を落とした。スイングコーチやメンタルコーチを付けてみたらと勧められても、「自分のことは自分が一番わかっているので」と拒み、彼は日に日に思考も姿勢も硬化させていった。

そうやってかたくなになる一方だった松山が昨年12月に目澤秀憲コーチと契約したことは驚きの変化だった。

「これまでは自分一人でやっていて、自分が正しいと思い過ぎていた。コーチを付けて、今は客観的な目を持ってもらいながら正しい方向に進んでいる」

今年のマスターズは、そう信じて挑んだからこそ「一人じゃない」と感じられ、それが松山の心に余裕をもたらしたのだろう。彼の表情は、終始、穏やかだった。初日から2位タイの好発進。スーパーショットやミラクルパットを連発したわけではなく、着実にフェアウェーとグリーンを捉え、ミスしたときは冷静にリカバリーを心がけ、淡々とボールをカップに沈めた。そう言ってしまうと当たり前に聞こえるかもしれない。だが、その「当たり前」をどれだけ心穏やかにやり通すことができるかがメジャー優勝には何より問われることを、松山は10年の歳月をかけて学び取り、今年のマスターズでようやく実行することができたのだ。

2位に4打差の単独首位で迎えた最終日。松山は出だしの第1打をいきなり右に曲げ、ボギー発進でつまずいたものの、2番ですぐさまバーディーを奪い返し、3番のパーセーブで落ち着いた。しかし、15 番でボギーを喫し、追撃をかけてきたザンダー・シャウフェレとわずか2打差で上がり3ホールを迎えた。ともすれば形勢逆転も起こりうる状況だったが、松山は穏やかな表情のまま「ザンダーのプレーをコントロールすることはできないので、自分がいいプレーをすることだけを考えた」。逆に松山の攻め方を先読みしたシャウフェレは、16番で池に落とし、トリプルボギーで自滅した。松山も16番ではボギーを喫し、最終ホールの18番はパーパットを外してしまったが、最後はボギーでも1打差で勝てることを知っていたからこそ、彼は力尽きて外してしまったのだろう。

「上がり方はカッコ悪かった」と松山は振り返った。だが、初出場からの10年間、すべての出来事を受け入れながら必死に歩んできた彼が、最後に力尽きながらパーパットを外した姿は、格好悪くなんかない。苦難を乗り越え、幼いころからの夢だったマスターズ優勝を成し遂げた姿は、無条件に格好良かった。

「僕が勝ったことで日本人もできるって、わかったと思う。僕もまだまだ頑張るので、みんなもメジャー優勝を目指して頑張ってほしい。僕みたいになりたいと思ってくれたら、うれしい」

自分に続いてほしいという思いを、未来を担う子供たちに伝えた松山の姿は、最高に格好良かった。グリーンジャケットを羽織るまでに遭遇したさまざまな山や谷。そのすべてが運命だったのだとしても、運命という名のチャンスをマスターズ制覇に結び付けたのは、彼自身の努力と鍛錬だ。日本のファンや子どもたちに勇気と感動を与えたいという彼の願いと優しさが、そこに加わり、史上初の日本人マスターズ・チャンピオンが生まれた。

マスターズ初出場から初制覇に至るまで、松山が過ごした長い歳月は、運命を味方に変えて夢をかなえ、その生きざまを後世に伝えたいと願う、そういう10年だった―。


※『Nile’s NILE』2021年6月号に掲載した記事をWEB用に編集し掲載しています

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ラグジュアリーとは何か?

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