最後に残るのは「決断」と「イノベーション」

時代を読む-第34回 原田武夫

時代を読む-第34回 原田武夫

時代を読む――原田武夫 第34回 最後に残るのは「決断」と「イノベーション」

11月初旬、ウィーンで開催されたグローバル・ドラッカー・フォーラムに出席してきた。かの有名な経営学者ピーター・ドラッカーの偉業を偲しのんでの国際会議だ。現場では500名ほど、ネット上では1万人以上の聴衆が見守る中、活発な議論が繰り広げられた。 テーマは、ズバリ「人間の知能と人工知能(AI)」であった。こう言うとあたかも両者が拮きっ抗こうした議論が繰り広げられたかのように思われるかもしれないが、実際には全く異なっていた。率直に言うならば「人工知能(AI)」の激しい攻勢の中で、人類はいかにして人間性を守り切ることができるのかという実に切実なテーマについて話し合われたのである。

2日にわたる議論の中で見解は大きく二つに分かれていた。一つは「楽観派」とでもいうべき論者たちだ。「デジタル化は大いに進めるべきであって、人工知能(AI)が些事(さじ)を次々にこなしてくれる中、さまざまなビジネスチャンスが生まれ出てくる」と彼らは口々に語っていた。その際、キーワードとして語られていたのが「インターネットの普及による取引コストの激減」である。地球上のどこにいてもインターネットと接続している限り、いずれも個人である需要者と供給者の双方が結びつくことができるようになった。その結果、中間業者は徹底して排除される一方、これら両者の「出会いの場」をバーチャルなプラットホームとして作り上げる者たちは巨万の富を得るようになったというのである。

一方、「悲観派」は“そんな単純な話ではない”と反駁(はんばく)する。例えば「何でもリアルタイムに需要者と供給者をつなぎ合わせる」というプラットホームが次々に出来上がることで、一見すると経済が活性するように見える。しかしその実これは、「世の中に過剰供給されているモノ・サービス」をまだそれが届いていない地球の裏側にインターネットによって極めて低いコストで届けているに過ぎないのである。つまりこのプラットホームそのものは何らの新しい付加価値を生んでいるわけではなく、それを安価かつ迅速に届けているに過ぎないのではないかというのだ。

また人工知能(AI)が仕事場における些事を次々に片づけてくれることは一見すると無条件で好ましいように見える。だが、よくよく考えるとそうした「些事」ではあっても、これをこなすことを生業にしている人々が必ずいるはずなのである。しかし、彼・彼女らはこうした人工知能(AI)の猛攻によって一気に仕事を失うことになる。そう、デジタル化が急速に進む時代とはイコール、「大失業時代」でもあるのだ。

「大失業時代」が到来しつつある中、職を失う人々は確実にその不満のはけ口をどこかに求めるはずである。そして見渡すと、山ほど生まれる失業者の一人ひとりは、デモクラシーの名の下、「投票権」を握りしめている。そう、失業者たちは怒り狂い、時代を一気に「政治の季節」へと移行させてしまうのである。そうした展開をもはや誰も止めることができない中、「本当にこれでよいのか」という声が世界のそこかしこで湧き上がってくるはずだ。やがて訪れる大混乱の時代。もはや誰もそれを押し止めることはできない―。

今回の会議に出て思ったのは、ドラッカーとは我が国において語られているような「自分探しのためのツール」や「訓詁学(くんこがく)」ではないということだ。そして人工知能(AI)の猛攻によっても、人間の手に残されるのはただ二つ。「決断すること」と「イノベーション」である、というのが今回の会議の結論であった。そしてそのことを碩学(せきがく)ドラッカーは、今よりはるか前に見抜いていたのである。「人間的、あまりにも人間的な」そんなニーチェの言葉すら脳裡(のうり) に浮かぶウィーンでのひと時だった。「AI万能論」に浮かれている暇は私たち日本人に全く残されてはいないようだ。

原田武夫(はらだ・たけお)
元外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。
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ラグジュアリーとは何か?

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