仮想通貨は本当に「仮想」なのか?

時代を読む 第59回 原田武夫

時代を読む 第59回 原田武夫

仮想通貨

今、仮想通貨が大流行だ。「仮想通貨バブル」という単語が聞かれるようになって久しい。その代表格であるビットコインは世の中に送り出された当初の価値が1円に満たなかったが、10年も経たない間に200万円以上にもなった。「平成バブル崩壊」以降、なかなか盛り上がらない我が国の中でもさすがに大きな話題になっている。読者におかれても「仮想通貨にちょっと投資でもしてみようか」と考えている向きが多いはずだ。

そうした中で注意しなければならないのが「仮想通貨」という単語なのである。英語ではクリプトカレンシーと言う。正確に訳すと「暗号通貨」である。ところが日本語では「仮想」通貨と呼ばれるようになり、あたかも実在しないものであるかのようなイメージを日々抱かれるようになっているのだ。そのことにまずは気づかなければならない。なぜか。

「仮想通貨」が仮想でなければ困る人たちがいる。それは中央銀行であり、かつその株式を大量保有することを通じて近現代の世界システムの運用を事実上執り行ってきた国際金融資本、さらにはその資金主である各国の王族たちである。

日本語では普段、「お金」という言葉を用いる。しかし厳密に言うと「お金」には2種類あることをご存じだろうか。「通貨(カレンシー)」と「貨幣(マネー)」である。前者は中央銀行が紙幣として発行しているのに対し、後者は(一般的に)政府当局が硬貨(コイン)として発行しているのだ。そしてこの単純な、誰しもが知っている事実を聞いて「なぜそうなのか?」と疑問に思わなければならないのである。

難しいことを省略して言うならば「通貨」の本質は債務にある。なぜならば通貨は次のようにして発行されるからだ。―まず中央銀行がお札を刷る。これを中央銀行に開設された口座を通じて市中銀行が「借りる」のである。そしてこのお金を今度は企業や個人が「借りて」いる。このように通貨とはその本質が債務にあるのである。この点が、政府が発行してばらまく貨幣とは全く違う(「記念コイン」をイメージしてもらえば分かりやすい)。

そして債務、すなわち借金が存在しているということは「債権者」と「債務者」がいるのである。非常にざっくりとした形でいうと、究極の債権者は「資本(株式投資)」ではあるものの、マネーを中央銀行に出している国際金融資本なのである。他方、債務者は究極において国民であるわけなのだが、その国民が返済能力を持たないとなると最終的には「国家」が肩代わりをせざるを得ない。実際、こうした「肩代わり」はリーマン・ショックの際に全世界的に行われた。シェークスピアの『ベニスの商人』が全世界に広げられたシステムこそが「通貨システム」と呼ばれるものの本質なのだ。

仮想通貨はこれとは全く異なっている。債権債務関係はそこにはなく、したがって主従関係もない。むしろ対等な者同士での取引情報の自動的なシェアを通じたシステムの安定性・継続性の確保。これこそが仮想通貨を支えるブロックチェーンの基本中の基本なのだ。

こうしたシステムが、「通貨システム」とそれを支える諸勢力からすると唾棄すべきものであることは言うまでもないのである。だから「仮想」通貨と呼ばれ、暗号通貨とは呼ばれないように仕向けられているのである。実に巧妙としか言いようがない。

2018年が始まり、金融マーケットでは史上空前の規模での株高がスタートから発生した。量的緩和で「通貨」を全世界にばらまき、インフレ誘導をしてきた結果、そこに火がつき、いよいよ全世界的なインフレが発生している。この勢いは程なくしてハイパーインフレを招き、国家財政破綻が全世界で生じるのだ。その時、人々はようやく気づくはずだ。「通貨こそが元凶なのだ」と。

それでもまだ私たちは本当にクリプトカレンシーが「仮想」通貨だと言い切れるのか。鵺のような呪縛が解かれた近未来に人間性の復活が見られるか否か。今から気になって仕方がない。

原田武夫 はらだ・たけお
元キャリア外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。

※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し再掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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