再び到来する「不良債権紳士」の時代とその末路

時代を読む 第71回 原田武夫

時代を読む 第71回 原田武夫

マネーマン

表向きマスメディアでは「好景気は続く」といった大本営発表とでもいうべき論調が続いている我が国だが、現実の経済を見ると全くそうではないことは言うまでもない。実質賃金が伸び悩む中、企業の現場ではデジタル化により「隅の隅までマーケットにする」という細かな作業が日常化しており、働く者の側にはとにかく疲労感ばかりが募る展開となっている。とにかく相手は巨大な人口知能(AI)であり、とてつもなく広いグローバルマーケットなのである。かつて我が国において一世を風靡した「平成バブル」当時のように、ドリンク剤を飲んで「24時間戦えますか」と叫んでいれば何とかやり過ごせるという状況ではおよそないのが現実なのだ。

そしてそうした中、ひたひたと迫り始めているのが再び「あの時代」なのである。そう、「不良債権が山積みになる時代」だ。無論、表向きマスメディアでこうしたことが先行して語られることは全くない。メディアがこの問題について公然と語り始めるのは、何か「コト」が起きてからなのである。しかし、そうなってしまってからでは全くもって遅いのだ。その時にはもう不良債権という大型爆弾が我が国の至る所で炸裂している、に違いないのである。

これまで25年にわたってグローバル金融マーケットを渡り歩いてきた珍しい日本人の一人である猛者が、私に対して最近、こんな風に教えてくれた。

「今年3月末を過ぎて不動産を買う者は、我が国において皆無になるはずですよ」 

このマーケットの猛者が言うにはこうである。――今、我が国の、とりわけ地方の金融機関は莫大な不良債権を抱えるに至っている。日本銀行が安倍晋三政権にどやされる形で「量的緩和」をし続けたものの、とにかく地銀レベルでの融資貸出残高は伸び悩んできた。何せ、かつて「貸し剥がし」を平成バブル崩壊の時から行うことで成り立ってきたのが我が国の金融機関なのである。「事業性はあるがリスクも高い」ような案件を自らの足で見つけ、育て、資金注入して共に繁栄するなどという発想どころか、能力そのものが皆無なのだ。

そんな時にこれら金融機関に勤める我が国のバンカーたちが目をつけるのが「安心・安全」なはずの不動産なのである。これを担保にして「大丈夫ですから」と上役を説得しては貸し付けるわけであるが、やがてこの担保価値の計算自身が怪しくなってくるのが人情というものだ。結果、本来ならば、はじき出せないような莫大な担保価値を事実上、捏造し、それに基づき日に日に大胆な融資を実施していくようになる。そして気が付くと「不良債権の山」が人知れずできていたというわけなのである。

これを金融当局は程なくして伝家の宝刀「検査」によって一掃させようとしているのだから大騒ぎだ。「不良債権」は二束三文で地方を中心とした金融機関により売り飛ばされることになる。そして外資系を中心とした「企業再生ファンド」がこれを待ち構えており、時にさまざまなかつての悪事を対象企業について暴露しながら「刷新」をアピールし、最後は華々しく売り飛ばしては時代のヒーローとなって表舞台を駆け抜けていくのである。そう、2003年を頂点とした「不良債権処理」の時代を駆け抜けた、あの不良債権紳士たちの時代がまた到来するというわけなのだ。

だが今回だけはどうも様子が違いそうだ。なぜならばコトは、規模の大小を問わず「一企業」のレベルではとどまりそうもないからである。むしろ「一企業」単位をはるかに超えて、我が国経済全体が「デフォルトの時代」に入るのが必至なのであって、それはやがて我が国そのものの破綻にまで陥る危険性すらあるのだ。そうである時、「不良債権紳士」は結果、果たして我が国を売り抜けることができるのか、ある意味見ものなのかもしれない。そう思うのは、果たして私だけだろうか。

原田武夫 はらだ・たけお
元キャリア外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。

※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し再掲載しています

ラグジュアリーとは何か?

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