「八月革命」の罠

時代を読む 第96回 原田武夫

Text 原田武夫

時代を読む 第96回 原田武夫

国会議事堂

「これから世界中がやかましくなるけれども、とりわけ我が国はとめどもなく崩れていくことになる。誰にも止められないほどになるからよく見ておくがいい」

北海道に隠遁している我がメンターの言葉だ。早いもので10年以上も前にこのことを聞いた。「なぜそうなるのか」についても聞いたのだが、ここでは詳しくは語るまい。しかし一つだけ言えるのは今起きていることが決して偶然ではなく、分かる人には前々から分かっていた人心の動揺だということなのだ。後はそれを先に知り、備えていたかどうかにかかっている。

非常に重要なのは「今起きていること」が当初、政治や経済、あるいは官僚制のリーダーシップのせいということにされているが、やがては「そんなレべルの出来事ではない」とういことが誰の目にも明らかになるという点である。すなわち我が国は第2次世界大戦における「敗戦」後、全てが国民である私たちの決定に基づくというフィクション、すなわち「民主主義」「国民主権」を採用した。

そうである以上、「今・ここ(now and here)」で起きていることはとどのつまり、私たち自身に原因があるということなのだ。そのことが早晩明らかになる。

なぜこのようなことになったのか? 理由は簡単だ。1945年8月15日における「敗戦」が「革命」であったなどというペテンもいいところの「偽理論」をもって、こうした民主主義、国民主権が憲法上、盛り込まれることになったからである。爾来、アカデミアはこのことを延々と繰り返して述べ、やがて誰しもがこのことを当たり前に思うようになった。

しかし、「権利」の裏側には常に「義務」がある。それは共同体に対する義務である。私はドイツ公法の研究者でもあるが、我が国が法学を学んだドイツでは「権利論」の裏側に壮大な「義務論」の体系がある。ところが我が国では、とりわけ戦後、このことについて全く顧慮しなかった。「戦争を始めたのは国家ではなく、私たち=国民ではない」という言い訳の下に、である。

結果、私たち=国民はやりたい放題にやってもよいということになり、∞の欲望が権力を簒奪し合い、国家を溶解させるプロセスが始まった。そしてついには親族もろとも放送利権を蝕み、それでいながら我が国を統べる内閣総理大臣の座に居座ろうとする輩までも登場するに至ったのである。しかも「私は世襲ではない、民主主義のおかげでトップになれました」などとののたまいながら、だ。

ついに落日の寸前にまで落ちる我が国において戒められるべきはオリンピック組織委員会の面々でもなく、また与党領袖でもなく、さらには大手企業に居座る財界人たちや、壊れたラジオのように「八月革命説」とその延長を繰り返し述べる言論人やアカデミアではない。私たち日本人の一人ひとり、なのだ。そのことに気付き、ようよう動き出すまでこの転落のプロセスは続く。もう止めることはできないのだ。

「しからば聞きたい、あの敗戦の時、『八月革命説』という包帯で傷跡を覆い、何とか立ち上がる以外の方法があったというのか」

歴史を繰り返すことはできないのだから、この問いに答える必要性はないと考える。だがしかし一つだけ言えることがあるのだ。「今・ここ」の瞬間で私たち日本人がどう考え、動くのかで未来の我が国は決定的に変わる。私たちは棚ぼた式で”民主主義“の甘い蜜をもたらし、やがては共同体としての我が国の全てを蝕んだ「八月革命説」を繰り返してはならない。

原田武夫 はらだ・たけお
元キャリア外交官。原田武夫国際戦略情報研究所代表(CEO)。情報リテラシー教育を多方面に展開。2015年よりG20を支える「B20」のメンバー。

※『Nile’s NILE』に掲載した記事をWEB用に編集し再掲載しています

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